宗教
敬虔な仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の方は、この記事を読まないでください。
この記事は、中身のない、ただのディスりです。
ここでこの記事を閉じてください。
宗教の成立過程は、わたしには不可解だ。
仏教は、なにもかも空しいと言ってゐたお釈迦様がいよいよ死にさうになると、ひたすら故郷を目指し、そして、世界は美しい、人生は甘美だとか言ったらしい。
弟子はそうとう戸惑ったのではないだらうか?
キリスト教のイエス様にしても、天国は近い、悔ひ改めよと言ってゐたら、なにがいけなかったのか、むごたらしく磔にされて死んでしまった。
これも弟子たちはひどく衝撃を受けたのではないだらうか?
仏教の場合、弟子たちが集って、理屈を練った。
この理屈。すべては虚無だといふ話だが、それで誰が納得できるのだらうか?
理屈でどう言ってみても、今、かうして生きてゐて、見たり触ったりするものをウソだ勘違ひだ、結局は消えてなくなるものだと言はれても理屈でわかるだけで、実感できない。思ひきり下品なたとへをしてしまふけど、男の坊さんなら、セックスしてゐるときは気持ちよくて、こんなのは虚仮である、虚しいばかりである、もうやめだって途中でやめたことなんて一度も無いはずだわ。終はってから諸行無常って感じちゃうけど、また元気になるわよね。男の人なら絶対にさうぢゃん。あ、ごめん、オネエになった。
何もかも空しいのには決まってゐるが、さう考へたって現実の問題は何一つ解決しない。ただ、ちょっと自分がものごとを超越してあくせく生きる人たちを見おろしてゐるやうな気がして、気持ちがよくなるだけのことだ。
イエスにいたっては、この人こそがキリストだといふことになった。罪は罪を犯してゐるのにそれに気づきもせず、気づかうともしないことが罪であり、それを後悔して、これからは気をつけようと思へばそれで済むと言ってくれたからマグダラのマリアもすっかり惚れたのに、いつのまにか、イエスは人類全体の罪のせいで死んだといふ話になった。誰にとっても罪は原罪だから自分ではどうすることもできない、死ぬことがまさに罪である、それは誰ひとり逃れられない、死んで生きかへるにはキリストに頼るしかないといふ、とんでもない話にすり替はってゐた。
かうなると、誰も彼も、ひとり残らず、イエスに借りがある。その負債を返さないと、死んだらほんたうに死んでしまって消えてなくなる。
たいへんなことになってしまった。
キリスト教においては肉体の復活によって死を回避する。それを約束してくれるのが教会で、そこでイエスが自分たち一人一人の原罪を帳消しにして死んだ後も肉体さへ残して置けば、生き返ることが可能だといふ話にした。
だから、キリスト教では極刑は火刑だ。復活するための肉体を燃やされれば、その人には永遠の死しかないからだ。
こんな話で、仏教もキリスト教も世界宗教になった。
キリスト教からイスラム教が考案されて、これも世界宗教になった。
仏教、キリスト教、イスラム教。
世界の三大宗教。
人類ってアホなのか?