「なぜ今この私に、宗教が必要なのか?」といふ問ひ
「なぜ今この私に、宗教が必要なのか?」といふ問ひは、
日本人ぜんぶに問はれてゐることだと、わたしは、思ってます。
共同体は、祈りによって成立します。
お葬式は祈りが無いとできません。
お葬式がなければ、穴を掘って死体を放り込んで埋める、もしくは重油をかけて焼く、だけのことになります。
たぶん、そこまでするのも怠(だる)くて、川に流す、崖から落とす、生ごみの日に出す、みたいなことになると思ひます。
共同体として共有する物語が無ければ、人間の生にはなんの意味もありません。だから、死にも意味づけはしなくなるのです。
むろん、人間は、こんな生き方はできません。
死を弔ふ人々が、仲間です。
人間は仲間がゐないと、気が狂ふ動物です。
犬と同じです。
群れるために、共有する物語を必要とする動物です。
その物語が宗教です。
だから、
「なぜ今この私に、宗教が必要なのか?」という問い
は、共同体を必要とする、わたしたち人間といふ動物には、避けて通れない問ひなのです。
しかも、宗教そのものが科学によって命を失ってしまった今、わたしたちは、新たに宗教にできるやうな物語を必死で探してゐます。
もし、仏教といふ古い革袋に、新しい物語を容れることができるなら、それにこしたことはありません。
その革袋は、もうボロボロであるとはいへ、・・・、いいえ、だからこそ、見慣れてゐて、手触りもよく、その中の新しい物語にも親しみやすいからです。