死んだら何もかも終はりって本気で思ってる人はゐるのだらうか?
さっきも、或る人のnoteに
死ぬ瞬間に何を思ふかなんてどうでもいい、
その後は何もかも無くなるのだから
といふ意味のことが書いてあった。
かういふことはいろんな人が書いてる、言ってる。
確かに、何もかも無くなるとしか思へない。
それは、「無くなったね」と思ってる自分も無くなるわけで、
視てゐたテレビの画面を消したとたん自分も消えた
といふ状態だから、どんなものか、想像することができない。
だから、かういふ死が人間の最後に来るとしたら、人間にとって生きる意味はすべて無効となる。意味をなさなくなる。
それなのに、平気で、
死んだらすべてが終はる。死んだ瞬間、意識が消えて永遠の無。
とかいふことを口にしたり書いたりする人が多い。
これはどういふことかといふと、わたしが今から家にある刃物をみんな鞄に入れて、どこかの保育園に乗り込んで、やりたいことをやりつくしても、それには善悪どころか、なんの意味も無いし、わたしが死んだ後は、さういふことがあったといふことも無くなる。
わたしの所業を目撃したりニュースで知って心を動かした人たちも、早晩、みんな死ぬから、その人の心の中に生きてます、といふこともかりそめである。
わたしは、かういふことが不思議でならない。
たとへば、歴史は、過去から現在、そして、未来に続く一本の帯のやうに存在してゐるふうに感じる。わたしは歴史を調べて、歴史はたしかにあると感じる。その歴史は無数人々が、やはり歴史の中のそれぞれの時代に、歴史的な連続性を感じながら生きて行動したことによって紡がれてゐる。
けれども、それはすべて、わたしが宇宙の中に意識を持って生まれたときに認識したもので、歴史をつくってきたすべての人は一人残らず死んでゐて、わたしも死ぬから、歴史とは、いったい、どこにあるのだらうか?
死んだら終はり
と言ふ人がゐると、その人が一番大切にしてゐる人でも動物でも、目の前で、できるだけ苦しめて殺してみたくなる。
その人が一番大切にしてゐる人や動物の苦しみは、死んだら終はり。
そして、それを見て粉砕されたその人の心も、死んだら、一陣の突風によってたまさかできた湖水の水面の珍しい波紋にすぎず、風がやんでしまへば、それがあったといふことは誰にも確認できなくなる。
話が飛ぶが、わたしたちの立体的な物理世界は、平面の情報から生み出されてゐるといふ理論も物理学にはあるやうだ。わたしはそれを数学的に理解できないから、まったく理解してをらず、かうして言葉で語るのは、その内容を知らないで知ったやうな話をしてゐるにすぎない。波動といふやつと同じである。波動は数学的概念で、何もモノが振動してますといふ話では無いが、近頃は、波動といふと誰もがわかったやうな気がして話が進んでゐる。
どうしてさうなるのか?
わたしが情報系の話に惹かれるやうに、やはり、少なからぬ人の心には、
といふより人の脳には、
死んだら終はりでないことを望んだり、なんとなく何かが残ったり続いたりするやうに感じる装置があるのではないか。
わたしの知り合ひで、ずっと、死んだら何も無いと言ってゐた人が、今、九十を過ぎて元気なのだが、会ふといつも、
死ぬのはまったく怖くない、死んだら母親に会へるから
と言ってゐる。
その人の母親は、その人を産んですぐに亡くなったそうで、
母親は若くてきれいなのに、私はこんなしわくちゃで、ちょっと恥ずかしい
と、やはり、いつも言って、笑ってゐる。
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