「できる女」とは、「うかうかできる女」である論
価値観が違う時がありますね( ´艸`)
世代とか価値観とか人によって違うので、
私は、よく彼の地雷を踏んでます( ´艸`)
noteのシステムでは、自分が記事を公表するだけでなく、他の書き手との交流が起きます。
わたしは、自分の考へがとても偏頗なものだと自覚してをり、それは変はり者や時代の反逆者を気取るといふ余裕の無い、今の時代にはどこにも自分の居場所がないといふ深刻な不安と恐怖が根っこにあるものです。
ですから、たいていの人とは、
価値観が違う時がありますね( ´艸`)
となります。
かういふと、「みんなさうだ」と言ふ人が多いと思ひますが、あなたは、
民主主義、自由、個人主義、優生思想、ヒトラー、人権、子供たち、体罰、モラルハラスメント、ジェンダー、等々となると、ほぼ同じ価値観を持ってゐるはずです。
でなければ、戸塚ヨットスクールの校長先生(戸塚宏氏)と同じ人間だとみなされるからです。
みなさん、この人は基地外だと思ってるでせう?( ´艸`)
戸塚宏氏はモノホンの基地外である。さう感じられない人はアブナイ人です。(マスコミやインテリが違ふ解釈をしたら、また、さっと大衆は見方を変へるとは思ふけど( ´艸`))
そんな時代であることを察知できるから、先に述べたやうな項目には一律な態度と思考になるのだとわたしは思ってゐます。
自由と民主主義、平和、戦争は絶対ダメ、などと聞くと、反射的に素晴らしい、さうでなければならないと心の底から感じられる人たちは、戦前ならなんの迷ひもなく本心から
天皇陛下万歳!
と叫んでゐた人たちと同じ精神構造だとわたしは思ひます。
(戦前の日本人が、軍部に騙されてた、戦争には反対だったといふ話を本気で信じてゐる人はもうあまり多くないと思ひます)
これは非難したりバカにしたりして言ってゐるのではなく、人間は、自分が暮らす社会のイデオロギーと自分個人の考へや価値観や感性を同調させる装置が脳に備はってゐる、とわたしは思ってゐます。
何かが流行すると、自分も同じものを「わたしがそれを気に入った」と思って手に入れたり、同じ格好をしたり、同じやうな価値観を持ったりします。
人間はさうなるやうに脳が出来てゐるのです。
みんながちょん髷をしてゐると、みんな、ちょん髷だった。
ハワイなんかは若い女性は上半身裸だったはずで、それは、今の女性が短いスカートをはくのと同じで、みんながやってるから、露出狂でもなんでもなかった。
コッドピースが流行った時代と社会もあったのよ。股間に竿差してる部族なんかもゐたわよね( ´艸`)
恥ずかしいから、これ以上は言はないけど、やっぱりみんながやってたから露出狂とは呼ばれなかった。
わたしたちが持ってる価値観は、みんなと同じを目指す。
さうしないと自分が基地外であると感じて不安になるから。
脳がさう出来てる。
だから、人間を生物として見た場合、ほんたうに時代に馴染めない人は、本人としては、深刻に苦しむのが人間といふ動物としては自然です。
変はり者としての自分が平気な人は、さうしてゐても生命の危険を感じないからです。
そんなはずはありません。人間の社会は変はり者を排除します。そのことは、社会の免疫機能です。身体に異物が入ればたちまち命に係はるから免疫機能が精密に備はってゐるのと同じ。
高度に統合されて複雑に構造化された人間社会は、その中の群れが大きくても小さくても、個人に対する同調圧力に満ちてゐます。
さうでなければ、たちまちバラバラになります。
だって、社会や集団を作ってゐるのは、あなたといふ個人なのですから。
あなたほど身勝手なヒトは他にはゐない。自分のことしか考へてない。自分さへ良ければいいのです。自分が目立って自分が賞賛されたいから社会を利用してゐるだけです。要するには、個人は、本質として自由に生きたいのです。
社会とは、個人の自由を管理するために出来ました。
飛んでるジャンボ機の機長や心臓の手術中の外科医が、
今、私は踊りたい!
といふ自分の気持ちに正直になって自由に生きたら、あなたといふ個人はどうなるでせうか?
社会が個人から個人を守ってゐるのです。
クラシックのピアノの名手などが、なんでいつもタキシードを着なければならなんだと言ってジーンズなどを履いて演奏する場合、その人は、その時代の社会の大衆が待望する反逆者、それを見ると大衆が留飲を下げて、気持ち良くなる反逆者を演じてゐる。
ほんたうの意味で時代に逆行する反逆者に対しては、先づ、大衆が不快に感じて、その存在を全力で叩き潰すので、クラシックだからタキシードでないといけないといふのはオカシイなと思っても、ほんとうにさう思ふ人は、むしろ、誰にも反逆者と気づかれないやうに、誰よりもきちんとタキシードを着て演奏してゐるはずです。
さて、そんなわけで、わたしは、実は、たいていの人と価値観が違ふらしく、しかも、その違ひは深刻な違ひ、この時代の人間としてどうあるべきかに関はるものであるらしいので、意見のやり取りといふものは極力避けてゐます。
けれども、あやのんさんとだけは、コメント欄などで、かなり本音を出してやり取りができてゐます。ファシズムのお里が丸出し。
これは、あやのんさんの器の大きさのおかげだと思ひます。
あやのんさんは、ご自身の価値観はしっかり持ってゐらっしゃる方ですが、さうでありながら、自分とは違ふ価値観をぶっつぶさうとはしない。
相手の価値観を尊重すること、これは、できそうでできないです。
あやのんさんが、わたしの価値観はわたしのものとして、
へえー、さうなんだ( ´艸`)
と傾聴してくれるのは、なんでなんだらうとずっと思ってゐましたが、最初に、引用したあやのんさんのコメントによって、その秘密がわかった・・・気がしました。
私と高木氏の間でうかうかしたやりとりができる
わたしとあやのんさんは、やり取りをしてゐるとき、ともに、うかうかしてゐる。
この記事に、うかうかの意味を書いてあります。
うかうか
①こころが落ち着かないさま。不安なさま。
用例「天下も靜かならず、御悩みひとかたならず、
世の中はうかうかとして年も暮れぬ」
②周囲に気を配らず油断のあるさま。
また、しっかりした考へや計画がないさま。うっかり。
用例「唯うかうかと狐を釣りまして御座る」
「うかうかだまされる」「うかうかしてはゐられない」
(『広辞苑』より)
こころが落ち着かないさま。不安なさま。
わたしは、記事では自由と民主主義、個人がもっとも大切だとされる時代や社会を批判して激烈なことも書きますが、自分の価値観に自信を持ってゐるわけではありません。
記事に書いて主張してゐるときも落ち着かない、不安なのです。
あやのんさんとやり取りするとき、さうした落ち着かない、不安な自分を隠さないでゐられるのです。どうしてか、わかりませんが、安心できるのです。
周囲に気を配らず油断のあるさま。
また、しっかりした考へや計画がないさま。うっかり。
そして、自分がほんたうに考へたり感じたりしてゐることは、自分のこころの深層にあるはずですから、それはふだんの意識によって管理されてゐるはずです。
あやのんさんとのやり取りでは、さうした
深層にある、自分がほんたうに考へたり感じたりしてゐることが、
うっかり出て来てしまふのです。
あやのんさんに対しては、気を配らず油断のある自分が、うっかり、うかうか出て来てしまふのです。
わたしは、何度も、ここまで言ったら、もう、これで、あやのんさんには距離を置かれるなと思って覚悟したことがあります。
けれども、あやのんさんは、怒涛の反論とかではなく、
たいてい、( ´艸`)のマークを付けて、
価値観が違う時がありますね( ´艸`)
といった感じで、柔軟に、そして、大きく受け止めてくれました。
あやのんさんは、先生をなさってゐたそうです。
先生といふのは、
生徒ひとりひとりの個性を伸ばす
と口では言ふし、もちろん、それも先生の大事な役割でせうが、先生として一人だけ、みんなと対峙して教室の前の高いところ(教壇って今は無いのかな?)に立つのは、
人間として誰もが、最低限、これだけは守るべきだ、為すべきだ
といふものを成人するまでに生徒たちに知らせておかなければならないと思ってゐるはずです。
かつて日教組が戦前の軍部のやうに隆盛を極めてゐた頃には、サヨク教師たちは、
生徒を、二度と侵略戦争をしない、民主的な平和主義者の日本人にしたい
と思ってゐました。
そして、そのことを、自分個人の願ひ(自分の価値観を他人に持たせたい)であると自覚する必要は無かったと思ひます。
実際には、価値観は人それぞれです。
どんな価値観も相対的であり、絶対なものが無いといふのが民主主義の基本です。
民主主義の世界では、
人は人、みんな好きに生きたらいいんだ
といふ価値観しか、みんなと共有できません。
なのにサヨク教師たちは、平和教育を生徒に押し付け、しかも、それを生徒を自分の価値観に合ふ人間にしたいといふ個人の願望であるといふ自覚から逃げてゐたのです。
あやのんさんは、自分の価値観を自覚してゐる、と思ひます。
しっかりとした価値観は、一つには、お母さんの霊格とも関連してをり、少し他の人と違ったところがあります。常識から外れてゐる、と言ってもいいと思ひます。
小林正観氏やショーゲン氏の名前を平気で出す( ´艸`)のは、人間は、かうあるべきだといふビジョンが明確にあるからだと思ひます。
わたしは、ショーゲン氏とかぶっ飛びすぎて、ついていけない( ´艸`)
常識的に考へて有り得んやろう?って思ってしまひます。
でも、あやのんさんは、常識がどうとかは気にしない、真理を語ってゐる人は、はっきりと認める、といふ態度だらうと思ひます。
人間に関するビジョンが明確にある人は、不思議ですが、あまりあせらないやうです。
誰でも、目覚めれば、この真理に気づくだらうといふ、確たるものを、あやのんさんが御存知だからかもしれないなとわたしは思ってゐます。
あやのんさんは、基本、楽観してゐる。
社会にも人間にも、悲観するネタが目白押しであることはわかってゐらっしゃるが、悲観してゐない。
現実を見ないために楽観してゐるのではなく、現実をしっかり観て、だからこそ楽観してゐる、それがわたしには、いつも、こころを動かされるところです。
ほんたうに楽観してゐる人は、他人に、優しくなれる。
(いやなことを見ないための楽観である人は、わりあひ、キレやすい( ´艸`))
そして、ご自分も、うかうかできる。
それで、わたしに対してもうかうかしてくださるのだらうと思ひます。