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 『龍の遺産』    No.7     

第一章 『龍を探せ!!』


四■は、時間が出来た時、なるべく「東の防人」龍一の事務所を見張ることにしていた。圓●は例の連中(神宮寺先生のグループ)の望月さんから情報を得ようとしてるし、菱◆は新聞記者に貼りついている。俺は、あの助手の若者を調べているだけだ。しかし今日は昼から龍一の事務所脇の道に車を止め、監視体制に入った。車の中でコンビニの弁当を食べていた時、事務所から男が出てきた。こっちに向かってくる。
運転席側の窓を叩いた。今、気付いたように、あわてて窓のガラスを下げる。
「お前、そこで何やってるんだ。時々事務所を覗いていたな」
「今日だけじゃない、時々見かける。ちょっと聞きたいことがある、事務所へ来い」
四■は慌てたふりをして、
「冗談じゃないですよ。ただ昼飯を食べるために車を止めていただけですよ」
「何でもいいから、ちょっと来い」
車のドアに手をかけ開けた。誰だか分かっている。気の短い龍二と呼ばれている奴だ。ここは大人しく付いて行くしかないな。事務所の中も見たいし・・・・・・弁当を置いて、龍二の後をついて行った。
四■・・・まあ命までは取られないだろう。
事務所の中には、龍一だけが居た。龍二が腕を掴んで連れてきた四■を龍一の前に突き出した。
「こいつ、時々、事務所を見ていた奴だ。俺が見ただけで3回だ」
四■、今風の若者を装って・・・・・・
「俺、車を止めて飯を食ってただけですよ。何、因縁を付けているんだよ」
「脅したって金は持ってないよ。貧乏な会社員だから」
四■もそれなりに訓練を受けている。外見とは違い、このような時の対応は出来る。
「こら! 何、居直ってるんだ。やましい所があるからじゃねいのか」
「コンビニの弁当を食べるのに、ちょうどいい場所で。あそこに止めちゃいけないの? あんたらの許可がいるのか」
静かに二人のやり取りを聞いていた龍一が、突然、吸っていた煙草を四■に向かって、指ではじいた。顔に向かってきた煙草を、四■、左手軽く払って足元に落とした。
「ひ弱な会社員だと・・・・・・二人相手の時の自分の立ち位置を計算して立ち、両方にすぐ対応出来るように少し腰を落としているな。そいつ(龍二)と話をしている時も、こちらにも注意を払っている。そんなサラリーマンがどこにいるか? 何で見張っていたか言えよ、こちらも今は紳士的に大人しく話をしているんだ、今のところはな」
四■の眼が泳いだ。この二人には俺一人では太刀打ちできない。出入り口付近に少し下がって龍二が立っている。龍一が、じっくりと品定めをしているような目つきで俺を見ている・・・・・・
龍一が少し考えて、今気付いたように

「同業者か? 雰囲気はあるな。隠しても無駄だ。いつからここに目を付けた?」
「調べれば分かることだが、今は時間がもったいない。手荒なまねはしたくない、同業者には・・・・・・」
龍二が四■を数回見て「こいつ、俺たちと同じ? 本当か、こんなひ弱そうなやつが」
龍一「何代も続くといろんな奴が出てくる。頭を使うやつもいると聞く」
「これで手間が省ける。一度会ってみたいと思っていた。お前たち連中と。
会う機会を作ってくれ。そう頭(かしら)に伝えてくれ。」
ここで四■が折れた。
「分かった。伝えるよ。ここに電話すればいいんだな?」
「早めに頼むよ。貧乏な会社員の兄さん」
四■、後ろを警戒しながら出口に向かった。案の定、1本の棒のような物が
飛んできた。振り返らず左に避けた。ペーパーナイフがドアに刺さって震えた。後ろから龍一の声が飛んできた。
龍一がにたりと笑って・・・・・・
「俺、これが得意なんだよ。今のは「ち・ゅ・う・こ・く(忠告)」、次は手加減しないよ」

               ≪龍≫
 
車は横浜・横浜横須賀道路を海に向かって走っている。運転してる四■に向かって圓●が、「四■、俺たちもいつまでもこそこそしている訳にもいかないな。いいチャンスだ。今日のこれが終わったら、日にちを決めて奴らと会うことにする。爺ちゃんにも許可をもらってくる。我々がやめろと言っても奴ら、聞く耳を持たないだろう。とにかく一度、話を聞いてから決めよう」四■から先日の龍一の事務所での話を聞いた上の判断だ。
「奴は俺たちが何処まで知っているのか、知りたいはずだ。奴らは焦りはじめている」
「やみくもに探し回っても見つかるものではないし、ましてや100年以上も見つからなかったものを今すぐに簡単に見つかるわけがない」
「今日も龍一たちが近くに潜んでいる可能性がある。それを踏まえて、あえて近づかないで、それに俺(圓)●は、あの連中の女性に顔が割れているし・・・・・・」
浦賀インターが近づいてきた。
「多分、奴ら(神宮寺先生のグループ)の方が先に着いているはずだ。車をこの先のどこかに置いて歩いて行こう」
「彼らがいなくなったら、参拝者を装って、宮司から聞き出そう。いろいろ聞いているはずだから・・・・・・・」

「西叶(にしかのう)神社(じんじゃ)は天保年(1837年)に火事で拝殿を本殿を喪失し、当時のお金で3000両で再建されました。同時期に後藤利兵衛の彫刻もスタートしたと思われます」
「ここ西叶神社には、もう一つ建物があったのですが、火事で焼けてしまいまして今では、そこにありました彫り物を社務所に少し保管してあります」
と宮司さんが話し、みんなで社務所の中へ入った。普段は観れない後藤利兵衛の彫り物。事前に説明を受けていた彫り物の以外の彫り物を見ることが出来た。
また、西叶神社は、数年前に修復工事が行われており、社殿も屋根などをはがし、屋根をふき替えている。骨組みだけを残し修理が行われていた。その修復工事の写真データを借りた。すでに修復のために詳細な調査を行っており、龍眼と宝珠に関しては、無傷な上に、中には特別な物が入って無かった。
一番興味を引いた話は、ここ浦賀は造船所だったこともあり、それを守るため、第二次世界大戦時には、軍事施設も近くにあったようだ。防空壕や防御のための軍備貯蔵のため掘られた横穴が数多くあった。
西叶神社は山の背にしてる。その奥までは、立ち入れない。江戸末期はどうだったのだろう?江戸時代の浦賀港からはすぐ近く。浦賀奉行所もある。すぐそばには隠さないだろうが、少なくとも手がかりは残していそうだ。それを探しに来た訳だが・・・・・・。
また、この小高い山を越えての反対側には、北斎と伊八と利兵衛の作品が1箇所に残っている真福寺(しんぷくじ)が山の中腹にある。静かな森に囲まれたお寺だ。今回は沢山調査して資料を集めることだ。
その後三人は、隣接する東福寺(とうふくじ)へ向かった。長い石段を登り、途中の観音堂に初代伊八の龍がある。
神宮寺が「この観音堂は、再建築の際、伊八の龍だけは残したそうです。鉄筋コンクリートの建物になってしまいましたね」
青木は初代伊八の龍を眺めながら
「伊八の龍と利兵衛の龍が並んでいて、浦賀湾を見下ろしてますね」
青木さんはシリーズ化を狙っており、あらゆる情報を仕入れている。
「ここは以前の観音堂の情報がありませんので、まだ判断しかねます」
先生の気持ちはすでに次に訪ねる真福寺に・・・・・・
「私としましたら、これから向かう真福寺(しんぷくじ)は何か証があることを期待してます。北斎が1831年にあの神奈川沖浪裏がある富嶽三十六景の初版を出してます。ここ浦賀に訳あって隠れ住んだのが1835年。北斎の母方の実家があったので、それを頼ったとされます。分からないように名前も変えて三浦屋八右衛門と名乗っていたそうです。そして、ここ真福寺の観音堂の格天井には48枚の花・鳥・魚の画(え)があります。その中の数枚は北斎の絵だと言われています。その他は、この地元の絵師が北斎から教えてもらい書いたものらしいと言われています。その観音堂の向拝の龍は後藤利兵衛の龍です。ここまで揃ったのも奇跡に近いですが、それに加えて初代伊八がここに素晴らしい作品を残しています。昔、壊してしまった本堂横の庫裏だと思いますが。そこの欄間2枚の彫刻、龍ではありませんが初代伊八が手がけています。
この欄間の彫刻のみ奇跡的に運び出され無事でした。現在、本堂に安置してあるようです。我々がキーパーソンとして調査してきた三人(初代伊八、後藤利兵衛、葛飾北斎)がここに一堂に会していたという事実があります」
神宮寺が車の中で熱く語っていたら、真福寺に着いた。
真福寺に着いてから、住職のご好意で、全部の作品を見ることが出来た。
一緒に外に出た住職が観音堂に向かう途中振り返って、我々に本堂の左脇方向を指差して・・・・・・
「今は見えませんが、当時はこちらの方向に富士山が見えたそうです。いまは木々が伸び生い茂ってしまい、見ることは出来ませんが・・・・」と話をした。
先生は、「多分、北斎は本堂の初代伊八の欄間を見て、ここから富士山を眺めていたと思いますよ。後藤利兵衛は少し遅れて来たとはずです。1840年に西叶神社の彫り物を始めていますので」
先生の説明を聞きながら、青木さんが、
「これだけの記録が残っていて、アクセスなどを考慮したら、もしかして、この付近を幕府が目を付けたかもしれませんね」
「確かこの付近に北斎が2年ほど住んでいたはずです」
「戻ってから地形を調べましょう。あれほどに荷物を浦賀まで陸路で運ぶはずはありませんから海路からだと思います」
「そしてここからどうやってこの近くまで、運び上げたのか? または途中で埋めたか、隠したか?」
青木は、今回の一連の出来事を紙面に載せるにあたり、ここを最初に取り上げようと考えた。神奈川県内が最初の火付け役となり、千葉への波及、そして県央、伊豆への拡がっていくことをまだ誰も想像すらしていない。
今回は、風人には監視の目は、感じられなかったが、多分どこかで見ているだろうと思っていた。遠くからの監視になったのだろう。それとも後でまとめて資料を奪いに来るかも知れない。狙われるとしたら先生と青木さん。注意喚起を促しておこう。
              ≪龍≫
 
「ここか?ここにかなり長いこといたな。確かにここは隠すのにいい場所だ。やつら沢山情報を持っていることがこれで分かった」
龍一は浦賀の西叶神社を見上げて言った。この道の少し先は江戸時代の浦賀奉行所ある。船で横付けすれば、荷物の降ろしが確かに楽だし、容易だと思った。
「奴らに調べてもらい、後でまとめて情報をもらう。奴らがこのあとどこへ行くのか確かめよう」
龍一たちは車に戻り、新聞記者たちの乗る車の後を追いかけた。龍一たちはまだ手探り状態が続いていた。暗中模索状態?神宮寺たちからの情報が頼りになった。
「乗りかかった舟だ。今日は最後までついていくぞ」
龍一の中では、どれだけ軍用金が途中で見つかって無くなったか、まだ幕府の御用金がここら辺に残っているのか? 何ヶ所にあるのか?分からないけれど、少なくとも一つは手に入れたい。今回が取っ掛かりに成るかもしれないと感じていた。彼らは西叶神社よりも長く、真福寺にいた理由がまだ分からない。
それが分かるのは、神奈川中央新聞に掲載された後だった。
ここ横須賀のこの二つの寺社(西叶(にしかのう)神社(じんじゃ)・真福寺(しんぷくじ))が、神奈川中央新聞に、掲載され、シリーズ化の最初の舞台となり、やっと神宮寺たちの意図がぼんやりと分かることとなった。
 
龍一の事務所に電話が入った。圓●たちからだ。話し合いの場所は新宿西口のホテルのロビー。人の出入りが多い所だが・・・・・・お互い一人を付けて、二名同士で会うことになった。昼下がりの午後、ロビーも多少落ち着く時間帯だ。すでに到着して待っている圓●と四■。
少し遅れて龍一、龍二がロビーに入ってきた。彼らなりに気を使ってビジネススーツを着ている。圓●たちは、普段の仕事着のラフな服装だ。
龍一と龍二が四■と見つけ、近づいてきた。
少し驚いたような様子で、隣にいる圓●を見ている。リーダーが女だとは、と言う顔をしている。
「お待たせしたようで・・・・・・」
龍一が座ったままの圓●を見ながら・・・・・・
「特に名刺交換などは、必要ありませんよね」
「どうぞ座ってください」圓●は、向かいの席を示した。
「こうやって会うのは初めてですが、お互い、知らないわけでは無いわけですので、今日は率直な意見交換ということで、お願いします」
静かなうちに、本題に入って行った。お互いに飲み物も注文しないし、するつもりも無いようだ。しかし、龍一が龍二に、何か飲み物を頼んで来いと言い、席を立った。それを止めるように圓●が
「長居をするつもりはありませんので、結構です」
「まあ、ここはホテルのロビーなので、礼儀として注文しますよ。こちらで持ちますので・・・・・・」
「結構です、自分たちの分は、自分たちで払います。初めての人にお金を使わせるわけには行きませんので」圓●が無表情のまま言った。
「ところで、お会いしたいと言い出したのはそちらですので、お先にどうぞ。
その前に、お名前を教えて下さい」
龍一は自分の名前と事務所の名前を告げた。そして離席している龍二の名を告げた。
圓●は自分の名前と四■の名前を龍一に告げた。
「家の者から、自分たち以外にこのような責務を負った組織があること以前に知らされていました。今回、このような形で会うことになったのは、あなた方が余計な行動をとったからだと私どもは解釈しています」
龍二が戻って来て、席に着いた。静かなロビー内なのに、周りの人にはほとんど圓●たちの会話が聞こえない。お互い同士しか聞こえないほどの小声。
龍一が「俺は5年ほど世間から遠ざかって、いろいろな事に疎くなってましてね、そちらへのご挨拶も忘れておりました。」
「時代も変わり、世の中も目まぐるしく変化し、自分にはなかなかついて行けません」
圓●「あなたの現状には、まったく興味はありません。なぜ今になって、昔のことを調べ、穿(ほじく)り返(かえ)すんですか?」
「私たちは金銭的な事が理由だと思っています。そう理解していいですね?」
龍一、面と向かって圓●が本題を話し始めたので、頭を掻きながら・・・・・・
「そう、のっけからストレートで言われるとは・・・・・・確かにその通りですよ。
今まで誰も手を付けていなかったのが不思議なくらいだと思ってます」
圓●、呆れた顔で龍一を見てそして龍一に向かって・・・・・・
「そのまま静かに次の代までそれを繋ぐのが私たちの役目。そう思いませんか?」
「私たちも突然、昔の責務が降りかかって来て、戸惑っているのが本音です。とにかく一回は会って、このことを伝えようと思ってました」
「はっきり言って、私たちは迷惑です。あなた方の行動が・・・・・・」
龍一が圓●の言葉を遮って

「まあ、そちらにはそちらの事情があると思いますが、こちらにものこちらのっぴきならない事情がありまして、今日は、根っ子が同じ仲間として、一緒にどうですか?と思って・・・・・・見つかれば折半ということで・・・・・・どうでしょう?」と上目づかいで龍二が切り出した
圓●、四■が顔を見合わせた。こうゆうことか、抱き込もうと言うことか・・・・・・
都合よく、煽(おだ)てて、目の前に人参ぶら下げて、旗振りをさせて、後でゆっくりと料理するということか。よっぽどなめられている。俺が女だからもあるな。冷静に一言
「貴方がたの意見、提案、分かりました。私はここで結論を出す立場ではありません。
私の一存で決められることではないので、長(おさ)に今日の話を持って行きます。
よろしいですか?」
龍一「結構ですよ、返事、お待ちしてます。そんなに長くはかかりませんよね。俺、それほど気は長くないのでよろしく」
圓●が先に帰ろうと席を立つ前に、龍一たちが立ち上がり、「お先に、いい返事待ってますよ」といい、出口に向かっていった。
圓●が呆れ顔で

四■、「まあ、こんなことだろうと思っていましたが、呆れたやつらだ」
「あいつらの考え方が分かっただけでもよしとしなくっちゃ。あいつらは金、金、金だけだ。そんなに簡単に見つかるわけがないだろう。俺たちも苦労を重ねているのに」
二人は目の前の冷めたコーヒーを飲んだ。そして席を立ってレジに支払いに行ったら、すでに注文の時にお金はいただきましたと云われ・・・・・・。
圓(まどか)●の怒りが顔に出た。「あいつに驕(おご)られるいわれはない」
自分たちの分をレジに置いて出て行った。

              ≪龍≫
 
青木の居る新聞社の打ち合わせルームに全員、顔を揃えた。神宮寺、風人、
望月さん、田中さん、青木さん、それに青木の上席のデスクの計6人。
「段々大がかりなプロジェクトになってきましたね」
神宮寺が全員を見渡し、口火を切った。
それに答えるようにデスクが・・・・・・
「私は単なるオブザーバーとして捉えてください。口は出しません。青木に
任せてます。それに途中参加ですので・・・・・・」
みんなの緊張感を解くように笑顔でよろしくと頭を下げた。
神宮寺はそのデスクに向かって・・・・・・
「とりあえず、今回のプロジェクト、名称はまだありませんが、皆さんと一緒に活動できることを喜んでおります。今まで調べてきたことを整理する意味で、最初から簡単に説明し、それに私の解釈を加えてお話ししたいと思います。
デスクにも参加していただき、ご意見もいただきたいと思っています」
「私どもは団体名の通り、寺社の龍の彫り物を調査研究をしております。歩いて調査をしていると、いろいろな話、その土地の昔話、伝説、伝承が情報として耳に入ってきます」
「その中の一つが、幕末期の御用金の話です。すでに数十年前からマスコミに取り上げられた「徳川の埋蔵金」の話です。「御用金」とも「軍用金」とも呼ばれています
このお金ですが、諸説ありますがどれもがいまだに発見されていませんし、
その後ブームと言うか騒ぎは静かになり、あまり近頃は語れなくなりました。」
「そんな折、今回の青木さんから持ち込まれた新聞記事の出来事。すっかり私の中では忘れ去られた事柄でしたが、風人くんと話す中で、もしかしたら関係があるかもしれないと思い始めております」
神宮寺は幕末期の徳川の埋蔵金に行方に関しての当時の解釈を時系列に沿って話した。
「まずは徳川幕府がもっとも慌てふためいたのは1853年のペリー来航です。以前から諸外国の船が時々見受けられたが、それほどの脅威とはなっていなかった。しかしペリーの軍艦の性能、大砲、鉄砲の性能を目の当たりにした時、どれをとっても太刀打ちが出来ないほどの差があることが明白になり、慌てて軍備増強や兵の育成に力を注ぎます。1862年に使節団をアメリカに派遣します。この時の艦長が勝海舟でした。ここまでは皆さんがご存じだと思います。」
「その勝海舟の進言を受けた幕府は、長崎に海軍操練所を設立し、勝海舟を軍艦奉行に任命しました。その勝海舟が「幕府の御用金が360万両~400万両ある」と日記に記してあります。これが徳川の埋蔵金と言われるものです。今の貨幣価値に換算すると24兆円ほどになります。この400万両というお金が江戸城無血開城(1868年)の時、金蔵にはまったくお金が無かったそうです。毎年、年貢(税金)として収まるお金とは別に軍備増強のために蓄えていたお金が消えたことになります」
神宮寺の話はその御用金がどこにあるのか?徳川埋蔵金探しの人が唱えた諸説、赤城山中に隠した説やその他の説を一つづつ説明した。
この話にデスクが最初に質問した。
「それだけの説があるんですか。それでも今でも見つからないと言うことは・・・・・・
まったくの空絵事か別の解釈や切り口が有るかも知れませんね。それがこれから神宮寺先生がお話しする内容ですね」
「私の考えている説も同じような物かも知れませんが、デスクのおっしゃる通り、まったく切り口が違っています。この説は、全く気付かれず、時間をかけて緻密に計画されて、幕府側の多くの人が携わっています。それを主導したのが当時の(※)勘定奉行(かんじょうぶぎょう)小栗忠順だと考えています」
神宮寺は一息入れながら、次に話す内容を頭の中で整理した。
皆は次の話がどのように展開するのか、興味津々の様子で見守っている。
おもむろに神宮寺が本筋とは違う話を始めた。
「皆さん、ちょっと興味深いことをお伝えします。江戸から明治に移ったのが1868年の辰年。1856年、安政3年もいみじくも「辰年」です。この年あたりから勘定奉行(かんじょうぶぎょう)小栗忠順が計画を練り始めたと思われます。長期的な計画ですので・・・・・・その協力者というのが、徳川幕府の普請(建築)を請け負ったのが武州(神奈川県愛甲郡愛川町)の半原宮大工。その矢内家(やうちけ)棟梁:矢内右兵衛安則が江戸城西の丸御殿、その後、竹橋御門西番所、表冠木御門・書院,御表門上屋敷、鳥山御上屋敷など数々を手掛けました。
その間にも、多くの江戸城の修復工事、増改築工事も行っています。と言うことは江戸城の隅々まで知っていると言うことです。これが一つの軸になります」
話が急に別の話になったので、みんなが戸惑っている様子が伺える。
「この矢内家は代々宮大工を継いでおり、遡れば太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を建てた時まで遡(さかのぼ)ります。矢内家になる以前には柏木家で、家督を継いで名前を変えて矢内家となり、幕府から苗字帯刀を許されるほどになりました。矢内家をはじめとする半原宮大工は、関東一円、特に今の神奈川県、静岡県、東京都の多くの寺社仏閣を手掛けています。特に大久保家の小田原藩では作事方も任され、小田原にも作品が残っています。
矢内家は、徳川家からの信頼が厚く、何代にも渡って貢献してきました。この徳川家存亡の時に、命を受けて動いたとしてもおかしくはありません」
「諸外国から国を守るためや尊王攘夷を掲げ、攻め入ってくる敵に対して、
幕府を守るため、この宮大工集団が動いたと考えております。当時の(※)作事奉行(さくじぶぎょう)の名前は分かりませんが、この作事奉行と勘定奉行がこの計画を立案したと思っております。もしかしたら寺社奉行も係っていたかもしれません。神社仏閣の管理は寺社奉行でしたので・・・・・・」
神宮寺はおもむろに半原宮大工の資料を出し、全員に配った。
一通り目を通したあたりで、神宮寺が、

「今、渡しました資料が、半原宮大工が手がけた寺社と江戸城に係る資料です。特に目立ちますのは神奈川県内の寺社を多く手掛けていたことがわかります。西からの敵に対しての大外の防衛線として陸の方は箱根が自然の砦となり、海側はしばしば外国船を現われる伊豆半島、特に西伊豆。その内側の守りとして相模川に沿って丹沢山麓から江の島まで・・・・・」
「この二つの防衛線の守り固めのために御用金を主要な場所に準備したのではないかと考えています」
「御存じの通り400万両はかなりの重さもあり、その防衛のためにそこへ運び入れるのは目立ちます。それを寺社を建てると言う名目として宮大工が木材を運ぶ、加工した建材を運ぶとしたらどうでしょう。それが隠れ蓑になるとは思いませんか? 
またそこに宮彫り師が同行しても何にも違和感はありません。その宮彫り師が名工だと言うこともプラスに働いています。その宮彫り師に協力を仰いだのが葛飾北斎であったら、一つの構図が出来上がります。
関東一円の他、伊豆、静岡、はたまた名古屋、伊勢まで旅をしている北斎は、各地で世の中の動向を探りながら、また、協力者を探しながら行脚していたと思ってください」
「まずは房総本面ですが、ここは初代伊八の協力を得て、この地区は幕府側の藩が多くあり、問題なくこの計画が実行されたと考えています。反対側の三浦半島沿岸ですが・・・・・・・
今、話をしていますのが、海側の防衛網で、外国船の脅威に対しても防衛線です。
初代伊八と並び称される名工に、後藤利兵衛義光がおります。20代のころ、師匠の命を受け、三浦半島の浦賀にあります西叶神社の彫り物を手掛けました。数年をかけて230もの作品を彫り、その出来栄えで彼の名が世に出ました。利兵衛は40代近くまでここ横浜、横須賀、三浦半島で仕事をし、50歳を過ぎて故郷の安房の国(千葉)へ戻っています」
「ここ浦賀は、葛飾北斎の母の実家があった所でもあり、北斎が諸事情があって名前を変えて、約2年あまり隠れ住んでいた場所でもあります。北斎はこの間でも、近くの住民に絵を教えたりして過ごしていました。偶然と言えるかどうかは皆さんの判断ですが、私には示し合わせたとしか思えないほど、この3人が同時期に浦賀周辺へ集まっています。
浦賀には港もあり浦賀奉行所があり、江戸に入る物資のすべての検閲を行っております。
今でいう税関ですね。すぐそばには浦賀造船所も作られております。それを主導したのが江戸城開城時の勘定奉行の小栗忠順です。」
初代伊八は西叶神社の隣りの東福寺に龍の木彫り(他の作品は焼失)と真福寺には欄間彫刻、三浦の来福寺の向拝に龍を残しております。
また、後藤利兵衛義光は、横浜の春日神社、禅林寺を始め浦賀の西叶神社、鎌倉の八雲神社の向拝にも龍の彫り物を残しています。」
神宮寺は一息入れて、みんなを見渡した。
「これまでの話で何かご質問はありますか?」
北斎を中心として宮彫り師、江戸幕府の重鎮が絡み、作事方の宮大工まで出てきた。メモと録音をしていた青木記者が・・・・・・
「この浦賀あたりで関係者が情報交換していたと言うことですか?」
「だれが計画を練ったのかは分かりませんが、勘定奉行と作事奉行が絡んでいたと私は思っています。それを伝える役目が北斎、宮大工との連絡係が宮彫り師、この図式が出来上がりました」
「先生、浦賀周辺はすでにそれなりに施設、港として機能してますけど・・・・・・」
「幕府としたら浦賀を中心としてもって大がかりな軍港を造り、機能させたかったかも知れません」
「東京湾内の守りはこの2か所(千葉側、神奈川側)を充実させる。そのために御用金を準備したのだと思います。」
 
   ※ 勘定奉行―江戸幕府の役職の一つ。財政や幕府直轄領の支配を
     司る。

   ※ 作事奉行―江戸幕府の役職の一つ。建物の増改築や修理を司る。
 
机の上には房総半島の地図と横浜・横須賀・三浦半島一帯の地図が拡げてある。
神宮寺が急に思い出したように・・・・・・
「ところで青木さん、タブレットを盗まれて、仕事に支障はなかったですか」
「御心配をおかけしました。タブレットは持ち歩き用で、取材時の記録だけに使っていまして、重要なデータ管理はデスクのPCにあります。あの時の写真などのデータは先生と望月さんからいただきましたので、大丈夫です」
「しかし、どこの誰だか分かりませんが、相当焦ってますね。先生のPCが盗まれたら大ごとでしたね。風人くん」
青木さんの言葉を受けて風人は「これからはいつも以上に身辺に気を付けてください。ここにいる皆さんを巻き込んでしまい、先生も僕も猛省しています。多分、先生もこれほどになるとは予測していませんでしたし、今後の予測も立ちません」
神宮寺先生「今までの取材で分かった事、特に千葉と横須賀での取材は、私にとっても大変実りの多い調査でした。これまでの事をまとめて記事にするかどうかは、皆さんの判断にお任せします。新聞記事になれば、かれらも今後動きにくくなりますが、私たちも同様です。今は今までの調査を踏まえて、今後の調査方針を決めたいと思っています。しかし、私は、今回の千葉と横須賀の取材で分かったことは、ただ一つ、この伝説、言い伝え、おとぎ話はかなり信ぴょう性のあることだと分かったことです。それと、それを守り見守っている人が幕末から今の世の中までず~と存在していて、今もなお続いていることです。
青木さんのタブレットを盗まれたこと、私のPCを狙ったことで現実味を帯びてきました。多分、我々の調査研究で、150年以上守られてきた秘密が露見することを恐れているのかも知れません。私たちが物欲で動いていないので、相手も戸惑っているのかも知れませんね」
「それと、私どもの方が2~3歩リードしていて、目標に近づいているのかも知れません」
デスクに向かって青木さんが「今日の打ち合わせの結果を見て、いつ紙面に載せるか、判断させてください」頷くデスク。
神宮寺は、机に拡げられた地図を指差しながら・・・・・・
「私はこう推理しています。江戸を中心として海からの大きな守りですが、千葉の外房から伊豆半島までの大きな外側の防衛網、それと内房から対岸の三浦半島までの江都湾(東京湾)内海の防衛線と二重に張っていると考えています。前回の調査では、内海の防衛線の拠点が徐々に分かって来たと思っています。東京湾を囲むように千葉県側は、館山・鴨川・富津・南房総市などを中心としたエリアを初代伊八の協力を得て・・・・・・
対岸の神奈川県側ですが、横浜・横須賀・三浦半島を後藤利兵衛と共にと思っています。今までの調査を基に、これから幕府が防衛拠点として考える場所を探しましょう。条件は、1)軍備、軍用金なので、出し入れが必要なので、ほとんど人の入らない山奥はNGです。2)軍備、軍用金を搬入しやすい地形、例えば海からですと港があるとか、海のそばに隠す場所が近くにあるとかです。御用金はかなりの重さなはずですので、大筒、鉄砲なども含まれますから。 人の目に触れない、触れても不審に思われない場所。
これはある程度、私たちの中では想像できると思います。神社の建立時や改築時には、大きな材木の搬入の時は、まぎれて持ち込むことも考えられます。と言うことは、近くに神社仏閣があるということですね。それも利兵衛、伊八かそれに関係する彫り師が彫った龍があると言うことです。
先ずは身近な横浜・横須賀・三浦半島から始めましょう」とは言ってもかなりの広いエリアだ。
謎解き、これぞ歴史ミステリーだ。悩んでいる割には皆、この謎解きを楽しんでいる。
風人が独り言のように・・・・・・、
「当時の運搬手段は、馬か馬車しかないよな~。人力で大筒などを担ぎ上げるのは、至難の業だし、目立つし・・・・・・」
神宮寺先生が助け舟をだした。
「横須賀・浦賀周辺は、西叶神社と真福寺がキーになると思っています。港がありすぐそばに小高い山があり、洞窟もありそうです。海上から荷揚げして、小山を越えて高台に隠す。有事のときには、すぐに準備・配置し、高台から攻撃が出来る。いかがでしょう?」
「真福寺から海岸まで少しありますね。その間ぐらい、例えば崖に横穴を掘って隠すとか・・・・・・」
望月さんが「わざわざ真福寺のある山まで運び上げるのは無理がありますね。
私だったら、ここにある観音崎にあります走水神社(はしりみずじんじゃ)なんかが立地条件にあってますね。偶然ですが、確か西叶神社の宮司さんが走水神社を兼務していたと思います」
青木さんが追いかけるように・・・・・・
「興味ある着想ですね。確かにここを守りの拠点とすると最適な場所ですね」
「確かそばにペリー上陸の場所があったね。横須賀だったよね?」
神宮寺先生が地図を見ながら、走水神社を訪れたことがあったかどうか、考えていた。
風人が突然、彼も地図を見ながら・・・・・・
「先生! 西叶神社の向拝の龍、観音崎の方角を向いています!!」―
「確かにそうだった。浦賀奉行所がすぐそばにあり、あまりにも安易な場所なのでありえないと思ったのですが、西叶神社を隠れ蓑にして、走水神社あたりに隠す」
「談合は真福寺で・・・・・・北斎、伊八、利兵衛が一堂に会することは無くても連絡場所としての役目はありますね。三人に共通している場所ですからね」
「伊八と利兵衛はかなり歳の差があり、お爺ちゃんと孫のようなものです。
その年の差を埋めるのが北斎。ちょうど二人の年にまたがっているので、つなぎ役のようですね。
その後の二人の名工の弟子たちに、伝えることが出来るのも北斎しかいません」
神宮寺先生、一同の顔を見回した。
「もう一つ、気になっていることがあります。初代伊八はあまり彫り物の
題材として取り扱っていない作品が真福寺にあります。それは「黄石公と張良」の欄間が真福寺にあります。
両面彫りなっていますが、ご存じの通り、馬上の黄石公が靴を川に投げ入れて、張良に拾わせる図です。いろいろな寺社で見かける図柄は、張良が龍に乗って拾い上げた構図です。しかし、真福寺の初代伊八の構図は龍が存在しません。張良が一人で靴を川から拾う場面です。考えすぎかもしれませんが、もしかしたら水(海)の中へ隠したのかも・・・・・・」
それに反応したのが青木さんだ。
「この欄間には大切な物を水の中から拾い上げるの意味が込められている。
御用金を隠したのは海? 陸ではなく・・・・・」
皆があたらしい解釈に思い思いに考え始めた。
風人が独り言のように・・・・・
「海の中に龍に係りのある何かがある? 目印はやはり龍?」


真福寺本堂内欄間:初代伊八「黄石公と張良


神宮寺が一呼吸おいて、話始めた。
「やはり海岸線の調査がメインになりますね。目印を探したいですね」

「その意味で、最初は観音崎と走水神社を調査することでいいですか?」
「もう一つ、私なりの推理があります。三崎です。三崎港には海南神社(かいなんじんじゃ)がありまして、もちろん向拝に龍があります。ここは珍しく龍を御祭神としていますお社があり。他のお社は沢山の有名な社がありますので、大勢の方がお参りしたり、海の神様を祀ってあるので、漁業関係の方も多く訪れます。私が気になっているのは、三崎港の海南神社ではなく、城ケ島にあります「城ケ島海南神社」です。海南神社が二つあることはあまり知られていません。ここにも向拝に龍があります。城ケ島の高台に鎮座しており、長い階段を登ります。海の安全祈願のために、地元の漁師さんたちぐらいが訪れる程度です。。
以前、三崎港を私が調べましたら、江戸の後藤流の弟子たちの作品が多く残っています。まだ未調査のところもあり、はっきりと言えませんが、三崎港周辺、特に城ケ島の海南神社は調べる必要があると感じています」
「もう一つ気になる場所があります。ここはまだ未調査ですが、三浦市の
剱崎に剱崎神社があり、そこには昔話で「龍神が渕(りゅうじんがふち)」と呼ばれる場所があるそうです。人を近づけないにするための昔話も存在します。ここも調べる必要がありそうですね」

望月さんが、「確かに海の守りに必要な場所ですね。伊豆方面から江戸に入るには、必ず通るところですね」
この三崎エリアは、もう少し調査が必要とのことになり、浦賀と並行して調査することになった。
青木さんがデスクの顔を時々見ながら・・・・・・
「私どもとしたら、もうそろそろ第一弾をと考えています。私どもは名前の通り、ここ神奈川県を中心としての新聞ですので、横須賀、浦賀の取材を踏まえて、第一弾は神奈川中心でスタートさせたいと思っています。ポイントを北斎と宮彫りの名工にとして、あまり幕府の軍用金・軍備を前に出さないようにしようと思ってます。例えば最初は、同時期に起こった出来事、事件、それに絡む人物などの紹介をして、その後、それらと北斎との関係へとつなげる。
あまり憶測で世間を煽り立てずに、少しづつこの件を付け加えようと考えています。北斎の謎だけでも、読者の興味を引くと思いますし、そのうえ、北斎の影響を与えた初代伊八とのつながりが新鮮味があり、龍と縁の深い北斎と「龍の利兵衛」と言われた木彫り師:後藤利兵衛との出会いまで含めると十分に反響を期待できます。
今回は、取材もしっかりしておりますし、深く掘りこんでいる記事になると思います。どうでしょうか?」
「それと毎週土曜日の特集版での掲載、その後の連載を考えております。初回は少なくとも半面、できれば全段もと検討しています。そうですよね~デスク・・・・・・」
発言を控えていたデスクが、
「これから青木にラフ原稿をあげさせますので、それを読んでからの判断で結構ですので、よろしくお願いいたします。それから関係の寺社の写真掲載の承諾もしっかりと取るように」と青木に言ってから席から立ちあがり、お辞儀をした。
「もう一つ、我々から情報を得ようとしている組織に対して、今回の掲載が、抑止力になると思います。これだけオープンにされるとコソコソとは出来なくなります」
神宮寺先生と他のメンバーはこの提案に対しての反対意見は出なかった。

※ 冒頭の写真:真福寺観音堂の龍(後藤利兵衛義光作)
 


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