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『龍の遺産』  No.17

第三章 『龍は死なず!!』


ある昼下がり、一人の若者?青年が箱根湯本駅に降り立った。初めてなのか珍しいのか左右をきょろきょろ見渡しながら、時々手元の地図に眼を落し何かを探している。手がかりを見つけたらしく駅に沿って戻るように静かに目的を持って三枚橋に向かって歩き始めた。箱根湯本駅の川沿いの三枚橋を右に渡り、旧東海道を歩き、その青年は畑宿を目指した。物見遊山の一般の観光客とは違い、しっかりとした
目的を持った足取りだった。旧東海道の箱根の道はこの先から急になる。その若者は一歩一歩何かを確認するかのように踏みしめて歩いているように思えた。歩いている前方の周りの景色を考え深げに眺め、急ぐでもなく静かにゆっくりと登っている。彼にとって初めての東海道、旧東海道を歩いている。
自宅のある千葉の木更津から朝早く電車を乗り継いで来たのだが、昼近くになってしまった。早川に架かる三枚橋から20分程度歩くと、小田原北条五代の菩提寺、早雲寺が右手に見えてくる。ここには自分たちの先祖の「遊撃隊士の碑」がある。彼が箱根に来た目的の一つだ。山門をくぐり、彼はその碑の前に立ちしばらく黙とう後、考え深げに碑に刻まれた文章を読んでいた。そして指で刻まれた文字を一字一字確かめるように触れ、そして。独り言・・・・・・
「芦ノ湖の畔にも請西藩士の碑があると聞いているけど、今回は行けないな」
その後、この時期に訪れる人もあまりいない早雲寺から静かにその場を立ち去り、畑宿方面へ足を向けた。次の目的地の「飛龍の滝」を目指した。箱根湯本から湯坂路へ歩いて飛龍の滝へのハイキングコースの道もあるが、一般的には畑宿から国道を使う方が無難な道のりだが旧東海道を歩くとなるとそれなりに厳しい道のりとなる。その青年は迷いもせず旧東海道の道を選んだ。畑宿から須雲川沿いに少し歩いてから右に折れて、支流の大沢川沿いに入る。しばらくすると右手に枝垂桜の「夫婦桜」が迎えてくれる。この桜の木々は寄り添うように何十年もここに毎年花を咲かせる。30分ほど歩くと川のせせらぎが聞こえ始める。瀬音と言うより傾斜のある地を急いで降りてくる水音だ。そして10分ほどすると前方の正面に滝が見えてくる。あたかも龍が天に翔け昇るかのような雄姿が浮かび上がる。その青年は滝の下へ着くと急ぐでもなく2段に分かれた飛龍の滝そばへ近づく・・・・・・
上段15m、下段25mの落差の滝を見上げる。周りは自然の音だけ、瀑布の水の音だけ、滝から眼をそらせて辺りを見渡わたすと、色付いたい山々が見える。誰もいない。
独り言に近い一言が滝を見上げている彼の口からこぼれた。
「ここか・・・・・・」
写真を撮るわけでもなく、辺りを歩き回る訳でもなく、長い間静かに滝を眺めている。
しばらくすると肩から吊っていたカバンから古い1枚のモノトーンの写真を取り出した。
「ここでいいの? 間違いないね? 」と写真に問い掛けて、思いをぶつけている。
その写真に写っている人物の時代から150年以上が経過したが、この飛龍の滝も昔と変わらないままなのか知れないが、周りの木々が繁り、大きく育って上段の滝までは見えにくくなっていた。
その若者はそのことは知らず目の前の滝が全貌だと思っていた。その写真の人物が見た景色は上段の滝のその上までを見ていたはずだ。その場ゆっくりと離れ、今度は来た道とは逆の湯坂路方面を目指した。徳川家康が江戸城に入る時に通った道、彼もその道を歩いて見ようと思ったようだ。その後ろ姿は、飛龍の滝へ来たとき時とは違う、何か迷いが吹っ切れて、決心がついたかのようなしっかりとした足取りだった。
三枚橋からの東海道の難所の箱根宿、元箱根までは辛い上り坂が続くが、幕府の命により道は整備され、途中に休憩所が設けられていた。その周辺には神社、お寺もあり、それなりに宿場に近い施設になり、充実していた。五十三次の宿場には含まれないが、畑宿あたりには本陣宿が設けられている。この若者は観光客が訪れる所には行かず、目的を持ってこの旧東海道へ来た。遡る(さかのぼ)こと150年以上まえ、この地で日本の歴史を変える出来事があった。彼は自分の眼で確かめに今日訪れた。
自分の中にその血が流れていることを確かめに・・・・・・
 
              ≪龍≫
 
火を入れていない炬燵で丸くなっている爺ちゃんに向かって、孫娘に当たる圓●は、いつのように素っ気ない言い方で・・・・・・
「ねえ~爺ちゃん、起きてる? 話があるんだけど・・・・・・」返事も待たずに、正面に座りこんで、勝手にしゃべりだした。
「ちょっと前に厚木方面の話を聞かせてくれたよね。あの時、自分たちはここら辺の守りではなかったので、あまり知らないと言ってたよね。自分たちの祖先が言われたのは箱根、伊豆あたりを受け持つことと言っていたよね」
圓●の祖父にあたる爺ちゃんは、安眠を妨げた孫娘に向かって機嫌をそこねる訳でもなくゆっくりと眼を開いた。
孫と言うより立派な大人になっている圓●だが、自分にとってはいつまでたっても可愛い孫。
「何だ圓●、いつ戻って来たんだ。仕事は順調か? 躰は大丈夫か?」
「人の話が聞こえて無かったの? はい! 元気でやっております。仕事も順調です。 爺ちゃん、教えてほしいことがあるの。例の私たちが調べている江戸幕府の軍資金の件で」
「爺ちゃんのお父さんかお爺さんに聞いた話を教えて欲しいの。」
「まだそんなことを引きずっているのか? 令和になってからもまだ続いているのか?」 考え深げに頷いた。
「親父から聞いた話でいいよな。圓●は多分知らないと思うけど、江戸幕から明治になる時に、各地で戦さがあり、その一つが戊辰戦争と言われている。その中で箱根であった戦さが、戊辰(ぼしん)箱根(はこね)戦争(せんそう)と言われている。もっと詳しいことは専門家か大学の先生にでも聞いて。とにかくその時に爺ちゃんの曾爺さんが旧幕府側の命で動いていたと聞いている。
その戦さの舞台が箱根で、最初は芦ノ湖湖畔の元箱根にある関所とその後、箱根湯本近くの山崎という場所で戦さがあったんだ。新政府軍と言っても小田原藩が前面に出て旧幕府軍との戦さを交えだ。いろいろ紆余曲折があったのだが、知っての通り、新政府軍が兵力、軍事力の差で勝利を収め、その後、明治になった。その闘いの中で敗れた旧幕府軍の伝令として爺ちゃんの祖先はその中に組み込まれ、働いたらしい。本来の「龍の防人」としての仕事も兼ねていたのかも知れないよ。らしい、らしいばかりで悪いが、親父から聞いた話なので、また親父もその親父から聞いた話しかも知れない。時代的に言って俺も曾爺さんの話だと思うな、きっと」
圓●は、かなり簡略された話だが、興味を抱いた。やはり西からの攻めに対する防御が箱根だと確信した。
「爺ちゃん、陸の守りは箱根の方は分かったけど、海の方はどうなの? 外国船からの脅威などの防衛は?」
「以前から幕府はそれもかなり気になっていたようだ。当時、度々外国船が現れ、脅威に感じていたようで、下田港にはペリーが来航するし、他の諸国から開国を迫られて、慌てふためいていた。むしろ「龍の防人」の役目としたらこちら、海側の方が重要だったかも知れないね。下田港が重要な港だとは理解していると思うけど、同じくらい西伊豆の松崎港、小さな漁村の松崎町の港だが、伊豆の西海岸の船便の中心地でもあった。そのため掛川藩、ここら辺は当時掛川藩の領地だったので、掛川藩から人を出し陣屋を設け多くの役人を置いた。海路としてはこの松崎の港から清水港へ、そして徒歩で掛川市へのルートだったが、冬には季節風の西風が吹き、海は荒れて出航出来ないことが度々だったようだ。それとロシア船が来て、物資の補給を依頼してきたこともあったそうだ」
圓●の祖父は思い出を語りながら、遠い日を回顧しているように思えた。
「幕府としたら、すぐ目の前まで外国の脅威が来ている訳だから・・・・・・そりゃあ慌てるよ」
「ここからは我々しか知らない話になる。幕府は、海の守りのためにまずは西伊豆の
松崎の港を整備し、外国船に対抗出来るような施設、港や、船を造ることにした。
下田湾の方は、近くに10万石の小田原藩が付いているので大丈夫だが、とにかく松崎の港の整備を急がなければならなかった。そこでたかだか一万石程度の掛川藩にその責務を負わせた」
「これは後になって分かったことだが、松崎の港の整備には数万両、いや数十万両以上の金が要だった。船を造ったり大型船が入れるように港を整備しなければならなかった。不確かだが大半は幕府が出したようだ。掛川藩にはそんなお金があるはずがない。
ここまでは分かったよな」
圓●、話に当時の藩の名前や事情が出てきて、少し戸惑って・・・・・・
「江戸幕府が海の守りのために、掛川藩とかいう貧乏なところに大量の軍用金を出したと言うことでしょう!」
「まあ、平たく言うとそう言うことだ。我々「龍の防人」は、江戸幕府が、そのお金をいかにして静岡の掛川藩に届けるか?のやり取りの密書を掛川藩の江戸の上屋敷に届けたり、また返事を幕府に届けたりしていたようだ。また、直接、静岡の掛川藩に伝えに行った話も聞いた。一介の下級武士であった我々の祖先だが、密命をおびていたので、それなりの身分を与えられていて、幕府が出した箱根の関所や幕府側のお城に自由に出入り出来る証明書、手形のようなものを持っていたようだ」」
「爺ちゃんがその話を聞いた時、今思うとその時の「龍の防人」は、軍用金を運ぶ幕府の動きを敵側に分かるようにおとりになっていたんじゃないかと思っている。
本来の北斎と寺社の木彫り師たちが動きやすくするためのおとりだな。旧幕府が崩壊しはじめた頃、圓●、お前たちに引き継がれたような役目に変わった」
またまた圓●の爺ちゃんは思い出しながら、懐かしげに・・・
「相手の眼をこちらに引き付けて・・・・・・物資を運び入れやすくする。なかなかの策士だな。我々の祖先は」思い出したように遠く眺め微笑んた。
圓が疑問を発した
「掛川藩への軍用金供与は東海道の防御のため? 伊豆半島の防御もふくめて? お金を東海道を使って輸送したの?」
すばやく祖父が応えた。
「いや、海路だろう、最終目的地は下田港で、それからは陸路だろうね。江戸からの中継地は横須賀から三浦半島をまわり、1~2ケ所の東海道沿いの港に立ち寄って真鶴へ。西伊豆にある松崎の港までは、海が荒れていて半島を迂回して行くのは当時の和船では無理だったようだ」
「これが一番大切な話だ。実際には幕府がこの地区に軍資金を供与したのは2ケ所だと伝わっている。掛川藩と小田原藩だと思うが、掛川藩がすぐに新政府軍に屈服したので、軍備や港整備のためにその軍資金が全部使われたかどうかは不明だし、掛川藩までその軍資金が確実に届いたかどうかも分からない。もう一つの小田原藩への供与だが、これはかなり複雑な話がある」
圓●の爺ちゃんは喋り疲れて、一息入れた。気を効かした圓●がお茶を入れた。
それを飲んで、圓●に向かって続きを話しはじめた。
「これからの話はお前だけの胸に中に留めておいてくれ。私の憶測も入っているが、
かなり信ぴょう性が高い話だ。当初、幕末の動乱期、小田原藩は幕府側でそれは変わらないと思われていたが、藩内で揉めており、どちら側に付くか結論が出ていない状態の時、新政府軍を攻めるため、幕府側の上総の国、今の千葉県の木更津にあった請西藩士が周辺の館山藩、勝山藩などが有志を集め「遊撃隊」を組織し、船を仕立て小田原藩を頼って真鶴までやって来たんだ」
爺ちゃんは一息入れで、思い出すように目をつぶり語り始めた。
「当時の小田原藩は、話したように藩存続のため、長い間、藩内で話し合いが続いていた。すでに真鶴まで来ていた「遊撃隊」は、直談判のため小田原城へ乗り込んだ。
歴史的に「小田原評定」と言われるぐらい、優柔不断なお国柄だったのだが、「遊撃隊に小田原城まで乗りこまれてしまい、仕方なく盟約を結び、新政府軍に立ち向かむことになった。ここまでは分かるな」
「ええ、小田原藩が旧幕府軍となり千葉から来た「遊撃隊」と一緒に戦うと言うことだよね」
「そうだ、しかしその小田原藩に旧幕府軍の旗色が悪くなったと情報が江戸の上屋敷からや、色々な所から入り、また、新政府軍の圧力により、鞍替えをするんだ。いままで同盟を結んでいた友軍の「遊撃隊」を敵とみなして・・・・・・」
「いろいろ葛藤はあったと思うが、とにかく昨日の友が今日は敵となり、またまた小田原藩内での長い協議があり、結局は、お金と物資を提供するから、遊撃隊は城から出ていってくれ!となった」
「何それ! 我が身可愛さのあまり、約束を反故にして友を放り出したわけ?信じられない」
「圓●、とにかく藩を存続させるため、生き残るために手段だった。その時、遊撃隊に渡したお金が1500両とか3000両とか言われている。そのほか食料や物資など、このぐらいのお金なら、小田原藩にとっては大した金額ではなかったはず。我々が幕府からの命で、防衛線を築くには一桁以上金額が違い過ぎる。遊撃隊に供与した1500両~3000両の金額は藩自ら工面した金だと思う。
想像だが、幕府が準備した金は十万両は下らないはずだ。今の金に換算すると60億~70億? そのお金が小田原藩が受け取ったのか、一部が遊撃隊に渡ったのか?わからない、謎だな」
「すなおにその程度の金(1500両~3000両)で遊撃隊が小田原城を追い出されたとは考えにくい、この金額程度では3ヶ月程度の維持費しかならないし、その他食料や物資、武器を供与されたとしても、これでは新らしい軍備を整えている新政府軍と対抗出来ない」
 
「遊撃隊が新政府軍と小田原藩が迎え撃った戦い(戊辰箱根戦争)は思った通り、圧倒的な軍備力の差で遊撃隊は負けて散り散りとなり、湯本から箱根へ撤退した。その他の大勢の者は、熱海から船で千葉へ逃げたと伝えられている」
「爺ちゃんの考えでは、幕府が用意した軍資金はどのくらいか分からないが遊撃隊に渡った可能性があると言うこと?」
「そうだよ、幕府は無くなり、それに関して記述する資料は残っていないし、小田原藩にもない。あの最中、撤退する遊撃隊が熱海から持って帰ったとは考えにくい。
多分、何処かに隠したか埋めたかだろうね。あとで使うために。それとその軍資金をその短い期間の闘いの間に使い切ることは不可能だ。これで分かったよね」
「それを箱根山中に? 本当? それが爺ちゃんの推理?」
「いままでお前たちが調べた葛飾北斎の役目と宮彫り師(初代伊八など)との関係がありそうなこと、段々証明されているわけだろう? 幕府は小田原藩を信用してなかったはず、あんな度々手のひらを返すようにしていたら信用できないし、預ける訳にいかない。北斎と宮彫り師が出会ったとしたら、小田原ではないな、お前たちにそのあたりの情報はないのかい?」
「今、神宮寺先生たちが小田原、湯河原へ調査に出掛けているみたい。帰ってきたら何か分かるはず。期待してる。また教えてね」
話を終えた圓●は、もう一度、爺ちゃんにお茶を入れてから立ち上がった。

            ≪龍≫
 
歴史を振り返って史実を紐解くと、幕末の旧幕府と新政府との戦いの中で、その出来事(戊辰箱根戦争)は表面でもわずか二~三行行程度でしか記していないほどの些細な事件かも知れない。しかしその裏では、言葉では語り尽くせないほどの出来事が起きていた。戦さのほか、せめぎ合い、談合、駆け引きなど・・・・・・
今に語り継がれているきれいな表の話とは別な出来事が数多くあったはずだ。
 
 
人見雄一は箱根から戻って、気持ちの整理に2~3日かかったが、意を決して友人、伊庭 勝へメールを送った。内容は「気持ちは決まった。俺は俺の先祖が悔いを残したことの後始末をこれからする。俺はお前の体に流れている請西藩(じょうざいはん)の武士の血と魂を借りたい。二人で祖先のやり残したことをやろう!」と・・・・・・。
人見の頭には、先日行った箱根の「飛龍の滝」の情景が浮かび上がってきた。
 
幕末時、人見と伊庭の祖先、人見勝太郎と伊庭八朗は遊撃隊士隊長として新政府軍と箱根で戦ったが敗れて千葉へ戻った。その後、二人は函館戦争まで闘い続けた。
その箱根戦争の敗走の折、遊撃隊第一隊長の人見勝太郎と第二隊長伊庭八朗に、次の戦いのために軍用金の処理を任された。二人がどのような方法を取ったのか、記録には残っていない。しかし、人見家には人見勝太郎が、再び旧幕府軍と一緒に戦い出る時に遺した一通の手紙(遺書)が残っている。奥州に出かけると決めた時に書き残した手紙だ。その手紙の中の最後の一行に次の言葉が残されていた。
 
「我は飛翔し、龍の如く滝を駆け昇り、天を目指す」
 
辞世の句のよう思えるが・・・・・当時の人見勝太郎は、まだまだ戦う意欲に燃え、血気盛んだったと聞いている。
伊庭八朗の家には何も伝わっていない。彼が千葉に戻って来た時はかなり深手を負い、回復に時間がかかったようだ。
令和に入り、人見雄一がこの一通の先祖の手紙を偶然仏壇の位牌の裏から見つけ興味をいだいていた。この話を小、中、高校と一緒だった同じ境遇の伊庭勝に相談をかけたのが始まりだった。
単なる歴史の中の一~二ページ程度でしか記載されない表の出来事の裏に隠されていた史実が少し明らかになりかけてきた。龍が再び動き出した。
 
「この手紙は門外不出で、長年仏壇の奥にしまってあった。お前の先祖の八朗と俺の先祖の勝太郎が一緒に奥州へ戦いに出かける時に、家族に預けていったと言われている。」
「読んでみろ」人見が伊庭にそっけなく手渡す。
「読んでもいいのか。人見家以外の人間が・・・・・・」
「今さら隠しておいても仕方がない。相談相手はお前しかいないからな。俺の気持ちは既に決まっている。メールに書いた通りだ。親父から聞いた話だが、未だにこの件を引っ張っている連中がいるらしい。まずは読んでくれ」
それほどの長文ではなく、家族のこと、兄弟のこと、自分が出征したあとのことなどが書いてあった。すぐに読み終わったが、伊庭はずっとその手紙を眺めていた。読み解かなければいけない内容がまだその文章の中に含まれているかのように・・・・・・。
「まあ、そんな内容だ。俺が一番気になっているのは、最後の一行の文章だ。辞世の句でもないしと思って、いろいろ考えてみた。それと二人(伊庭八郎と人見勝太郎)がここ木更津で決起し戊辰戦争の箱根で新政府軍と戦ったことはお前の家でも伝わっているよな。その時に小田原藩の煮え切らない対応に業を煮やして、箱根の関所でのせめぎ合いや小田原藩と新政府軍の軍との戦さが箱根湯本付近であったと歴史には記されている」」
まだ渡された手紙と人見を交互に見ながら、
「この最後の一行の文章と何か関係があるのか?」
「これから話すから、かみしめてよ~く聞いてくれ。俺たちの先祖に係る問題だから、おれは少し前、箱根へ行った。自分の推理が正しいかどうかの確認しに。150年経ってのことだが、行って確信した。これから俺が推理したことを聞いてくれ」
人見は持ってきた箱根周辺の地図を拡げながら話を続けた。
「まだほとんど推理の域をでていないが、新政府軍と旧幕府軍が戦った場所は箱根湯本から少し小田原よりの山崎という場所だ。両側を山に囲まれていて、守りやすく攻めにくい地形だ。結局のところ、旧幕府軍は新政府軍の軍備、軍勢で押されて敗走し、本隊は山伝いに熱海方面に逃げ、一部は東海道の箱根路方面に逃げたようだ。
この方面に敗走したのが俺とお前の先祖。俺が先日、箱根に行ったのは、その手紙の最後の一行が気になっていたからだ。箱根湯本から箱根旧街道を少し登って行くと畑宿というところがある。東海道五十三次の宿場には指定されていないが、それに準ずる宿場になっている。
箱根を越すのはきつい難所なので、そのような場所が要所要所に設けられている。
そこから少し先を行くと右へ入る林道がある、今では湯坂路と繋ぐハイキング道になっているが、昔は整備されていない獣道ほどの狭い道だったと想像している。その道を入り、40分ほど登ると滝がある。神奈川県下随一と言われている「飛龍の滝」だ。我が家に遺した手紙・・・・・・「我は飛翔し、龍の如く滝を駆け昇り、天を目指す」はここを表していたのではないかと俺は考えた」
伊庭は人見がそこまで考え行動していたとは想像していなかった。
「おい、雄一、最後の一行に飛と龍と滝があるので、それを調べて箱根に確認しに行ったのか?」
「そうだ。まだ確信が持てなかったので、自分で確かめに行った」
伊庭が「最後の天を目指すは・・・・・・特別意味をなさないのか?」
「いや、実際に飛龍の滝を目の前で見て感じたことは、人が容易く立ち入れる所ではないと言うことと滝が二段になって水が下に落ちている。上の段は下からは見えにくい。素人が滝を上るのはかなり難しい。俺が考えるには、この滝の上の段が気になる。」
「どうゆうことだ?」
「この滝は、上流からの川の流れが堰き止められたり落差があって出来た滝ではなく、湧水(ゆうすい)なのだ。水が湧きだして滝になって落ちている。俺はそこら辺に何かがあると思っている。いわゆる飛龍の滝の天、源だな」
伊庭に静かな闘志が湧いてきた。人見がこれだけ情熱を持って調べていることに対して、また、自分の先祖が旧幕府軍に属したことで、明治以降かなりの弾圧を受けたことを聞いている。その中にこのようなことも含まれていたのかもしれない。軍用金の隠匿、着服なと疑われたのかも知れないと。
「人見、お前の調べでは滝を登ったり、周りの岩場を登ったりは出来ない所なんだな。ましてやどのくらいの軍用金が知れないが、それを持って登るのは不可能に近いな」
「そこで俺は考えた。上から吊るしてその飛龍の滝の源、淵に落とし入れれば可能かも知れないと・・・・・・。
「まだそこまでは調べて無いし、飛龍の滝の裏側の山道、獣道?に足を運んではいないが」
伊庭が心を決めたように
「お前には二度手間になるが、俺もその滝を見てみたい。俺は学生時代はワンゲル部だ。見れば大体想像がつく」
「分かった。伊庭家に伝わっている資料や話があればまとめておいてくれ。参考に成るかも知れないから」
幕末の千葉から海(東京湾)を渡り箱根まで来た先祖。汚名を注ぐ機会が来たのかも知れない。

          ≪龍≫
 
神奈川中央新聞の青木さんから連絡が入ったのは、神宮寺先生と風人が湯河原から戻ってから2週間後だった。電話口で・・・・・・
「お久しぶりです。メールでも良かったのですが、声を聞きたくて電話にしました。
湯河原の調査はいかがでしたか? その件を含めてデスクが一度、打ち合わせをお願いしたと言っております。ご都合はいかがですか? もちろん、風人くんも一緒におねがいしますが・・・・・・」
神宮寺先生は、青木さんの電話の少し前に圓●から、これも電話で・・・・・・その時も少し驚いて受け答えしていた。最近、声を聞かずのやり取りが多くなり、肉声も続けて聞けたので、少しうれしく思っていた。
「お久しぶりです。青木さん、相変わらず飛び回っていたんでしょうね。
お元気でしたか? 青木さんの電話の少し前に圓●さんから電話があり、近々会って話したいことがあるそうです。彼女も一緒にお邪魔してもいいですか?」

「もちろんOKです。その方が話が早く進みそうです。デスクも喜びます」
「かいつまんで話しますが、圓●さんたちも私たちの調査行動を気にしていて、独自に調べていたようです。圓●のお爺さんから箱根、小田原、湯河原などの話と資料を集めていたそうです。興味深い話が出てきました。以前お話していたと思いますが、
「龍の防人」の一族の圓●さんは、江戸幕府の命により、箱根、小田原、湯河原から伊豆方面の伝令を兼ねて動いていたとのことです。私どもの調査内容とすり合わせれば、新しい解釈、発見が出て来そうです。私も楽しみにしています」
打ち合わせの日程調整は後日として、携帯を持っていない風人の予定を聞いてからということになった。風人はこのごろ、仕事に打ち込んでおり、湯河原後から音信が無かったので、神宮寺は彼の仕事場へ電話を入れた。
 
『神奈川中央新聞の打ち合わせルーム兼会議室』
 
「皆さん、ご無沙汰しております。お変わりないようですね。」デスクが冒頭の一言の挨拶で始まった。神奈川中央新聞の会議室での久しぶりの集まった。
「青木に頼んで皆さんに集まってもらいました。私どもとしたら皆さんのお力を借りて土曜日の特集が好評で、読者から「続きはいつごろ?」との問い合わせを来ています。是非今年から来年にかけて、月一程度で特集記事を組みたいと考えています。
今日は情報交換の場と考えています。神宮寺先生には今進めていらっしゃいます調査の進捗情報などを聞かせていただき、私どもの次の企画構成に活かしたいと思っています。よろしくお願いいたします」
各机の上には神宮寺が湯河原での調査など資料が置いてある。神宮寺は自分たちの資料に圓●たちの話を、肉付けしていけば面白い構図が見えてくると思っている。まだ全部の材料は揃っていないが、これからの調査の道標になる。
最初に神宮寺が先日調査に出かけた湯河原、真鶴方面へ出かけた目的と調査報告をした。
「私と風人くんと今度の湯河原・真鶴調査で分かったことは、今まで私たちが追いかけていた北斎と伊八の接点ですが、ここにもわずかですがあると感じています。
また、この二人に影響を受け、協力したと思われる宮彫り師の存在が明らかになってきました。石田半兵衛という伊豆の名工です。石田半兵衛一族と言っても間違いないと思います。
半兵衛の長男、次男、四男は宮彫り師としての高い技量を持っており、湯河原から伊豆半島周辺に作品を残しています。あとで詳しくお話ししますが、この石田家の長男:馬次郎に焦点を当てる必要があります。今日は、圓●さんたちからの情報も後から伺いたいので、時間があれば後程、お話しします。ああそれから、我々の湯河原方面の調査以前に、風人くんが一人で石田半兵衛の故郷、西伊豆の松崎町と下田方面へ半兵衛の作品を観に出かけています。まずは風人くんの話を聞きましょう」
全員の顔が風人に向いた。
「これは先生と先日出かけた湯河原・真鶴での調査で私なりに感じたことですが、先生から西伊豆に石田半兵衛という名工がいて、初代伊八の作品にリスペクトしたのではないかと言われ、直接観に行きました。それが皆さんの手元にある資料に写真で比較してあります。今までいろいろな場所で龍の彫り物を観ましたし、他の彫師の作品を観てきました。その中で石田半兵衛と初代伊八は非常に似ていると感じました。また、その子供たち(馬次郎、富次郎、徳三)の作品も初代伊八に影響を受けたと思わせる作品を彫っています」
デスク、青木が食い入るように写真を見ている。圓●たちも新しい情報に興味をそそられている。
「先生と話して、湯河原に初代伊八の作品と石田半兵衛の作品がかなり近い場所、神社とお寺に収められています。二人は同じ時代を生きています。石田半兵衛は
1801年~1871年。また、息子たちも1830年~1868年までに活躍しております。まだ彫り物の詳細まで調べていませんが、かなりの確率で影響を受けていると思っています。
史実的には、二人が直接どこかで会ったことは残っていません。もしここに葛飾北斎が介していたとしたら、もっと可能性が上がりますが、それも史実には残っていません。
しかしどこかに残っているかもしれませんし、北斎は伊豆にも足を運んだことは資料に残っています。推測ですが、初代伊八と石田半兵衛が出会ってから、その後、北斎と接触したとした方が、話に無理がないと思います。」
デスクが・・・・・・期待を持って・・・・・・
「ということは、今までの流れ、幕府の軍用金が絡んでもおかしくないと言うことですね。可能性として」青木がこの話を繋いだ。
「こちらでもいろいろ資料を漁りましたが、初代伊八の作品の西端は伊豆山神社ですね。湯河原町では、素鵞神社にありますね。出会った可能性はありますね」
「そうです。その近くの寺社(子之神社・醍醐院)には石田半兵衛とその
次男希道斎(冨次郎)の彫り物があります。年代的に同時代の作品です。また、ほんの少し離れた川掘の熊野神社にも希道斎(冨次郎)の龍があります」

神宮寺は配った資料の中の写真を見せながら 「初代伊八の特徴に似た個所が多々見受けられます。比較はまだしていませんが、真鶴町の貴船神社にも石田半兵衛の彫り物があります。なぜ真鶴の貴船神社にあるのかは分かりませんが・・・・・・・」。
神奈川中央新聞のデスクが、おもむろに 
「湯河原・真鶴・伊豆半島と言えば、幕府が優先的に防御を固めた大外の防衛線ですよね。ここで圓●さんたちの話がぐっと信憑性を増してきますね。今日のミーティング前に送っていいただいた圓●さんのおじいさんの話が益々興味が湧きました」
圓●は決心したように話を切り出した。
「祖父からは憶測なので話すなと言われていましたが、皆さんの話がかなり的を得ているように思え、今後の調査が遠回りにならないようにと思いお話します。あくまでも祖父の推測がかなり入っていますので、皆さんの中で解釈が違うと思いますが、
これからの作業の手助けになればと思います。事前に送りました資料の他に私が追加で祖父の話をまとめた資料がありますので、お配りします。この中に旧幕府軍と新政府軍の戦いの話があります。幕末時に幕府軍を支援するために千葉の藩が「遊撃隊」を組織し新政府軍と戦うために木更津から船で真鶴まで来たそうです。小田原藩を
取り込んで新政府軍と戦うために乗り込んで来ました。この話は史実に残っています。
しかしここから先は祖父の推測が入っています。
祖父が聞いたのは幕府からの軍用金、数万両もしくは十数万両と言われていますが小田原藩まで届いたのかどうかは分からないけど、その密書は存在し、私たちの祖先が小田原藩へそれに関する密書を届けたと言ってます。しかし小田原藩がご存じのように新政府側についたり、その後、慌てて幕府に尻尾を振ったりして、幕府も小田原藩を信用していなかったようです。
最終的には新政府軍に屈服して、旧幕府軍に刃を向けることになり、「遊撃隊」と箱根で戦うことになります。最初は元箱根の関所を挟んでの小競り合いでしたが、新政府軍からの圧力で、箱根湯本で戦うことになりました。
度々変わる小田原藩の対応に、遊撃隊は振り回され、少しのお金と物資を与えられ、城を出されますが、それだけでは近代兵器を備え、多くの軍勢の新政府軍には太刀打ちできません。どのようにして遊撃隊に軍用金が渡ったのかは不明ですが遊撃隊に軍用金が渡っていたと解釈した方が良いと思います。その後の戦いにおいてこの軍資金が使われたことと思いますが、時すでに遅しでした。
祖父はこの防御線に幕府が軍用金を用意したのは、山側防御と海側の防御の二つだと言っています。
海側は掛川藩(今の静岡県掛川市)に渡したとすれば、当時、飛領である西伊豆の松崎町は小さな漁村でしたが海路の重要な拠点のため、港を整備し、見張り所を建て、役所を設け、役人を置くために使われた。何故なら諸外国の船が度々訪れるため幕府は脅威を感じていました。しかし、結局は掛川藩は新政府軍に寝返り、その後はご存じの通りです。幕府の軍用金が掛川藩に全部が渡ったかどうかはっきりとは分からないようです」
全員が圓●の話を聞き、神奈川中央新聞の青木は後で聞き直すために録音している。神宮寺先生がやはりな~と頷きながら、
「ここで西伊豆の松崎町が出てきましたね。偶然と言う言葉ではすまされませんね」
「石田半兵衛一族が最初はこの松崎町で過ごし、後に離れ離れになります。風人くんが先日、松崎町へ石田半兵衛の作品を観に行きましたが、次の調査では半兵衛一族がこの地、伊豆での足跡を辿りたいと思っています。もし可能であれば圓●さんたちにお願いしたいです。
視点を変えることも必要ですし、「龍の防人」としての観点と経験が役に立つと思っています。葛飾北斎、初代伊八、石田半兵衛との接点がどこかにあるかも知れません。それが解き明かすカギになりそうです」
圓●たちはこの意見に同意し、自分たちの調査対象を伊豆方面に絞ることになった。スケジュール調整は自分たちで行い、それを神奈川中央新聞へ送ることになった。
 
圓●が再び話始めた。
「これも祖父の話ですが、遊撃隊の数百の軍勢で小田原軍と新政府軍の合同部隊に立ち向かったのが箱根湯本から少し行った小田原寄りの山崎と言う場所だったそうで、通称戊辰箱根戦争と言うそうです。最終的には遊撃隊は一日で敗けて後退し、多くはほうほうの体で熱海方面に逃げ、船で千葉へ戻ったそうですが、はぐれたか別行動をした少数の別部隊は箱根路方面に逃げ、その多くは敗残兵の山狩りにあい、亡くなったそうです。祖父が言うには戦いに敗れ、山伝いに熱海の海岸まで遠くに逃げるときに、すべての装備を捨てていかなければならないのに、重い軍用金は運ぶどころではなかったはずだと言っています。それならば箱根周辺の山の中に隠す方が、次の戦いの備えのためには良いのではないかと言っています。」
神宮寺先生と風人は、初めての調査となる箱根周辺の寺社と戊辰箱根戦争にまつわる場所を調査することになった。
 
デスクが圓●に向かって
「しっかりとしたおじいさんですね。話に信憑性があります。推測憶測の域を超えています」
今まで静かだった風人が、意を決したように、
「これから調べることが沢山出てきましたね。圓●さんのお爺さんの話をベースにして裏付け調査ですね。千葉にも一度調査に行かなければならないし、箱根辺りにも・・・・・・そしてもう一度西伊豆の松崎町にも行く必要がありますね。先生!」
録音しながら、メモを取っていた青木が、
「戊辰箱根戦争は聞いたことがあります。そんなことが起きていたとすれば・・・・・・」
神宮寺先生が、圓●に問いかけた。
「お爺さんは推測だと言ってますが、圓●さんはどう思います?」
「私はお爺さんが先祖から代々受け継がれた話に自分なりの推理を働かせたと思いますしそれを私たち本当かどうかがを裏付ける必要があると考えます」
「風人くん、箱根湯本辺りには江戸時代から続いている寺社がどのくらいありますかね?あとは詳しい地図が欲しいです」
青木が、「それはこちらで用意します。箱根湯本周辺寺社も調べてみます。あとはなにか準備するものはありますか?」
「出来れば戊辰箱根戦争関係の資料も欲しいです。まだ勉強不足なので、読んでみたいですね」 
圓●が仲間の二人に向かって 「四■、今までの話、PCデータに入れて置いてね。
これは俺たち一族の話で責任があるからな」
デスクが締め括りの言葉として

「これから作業分担しながら今回の内容を調べることにしましょう。今後、青木と私がこの件を担当しますので、いつでも連絡をお願いします」
デスクは社内の次の土曜日の企画会議が今まで以上に広がる感触を得ていた。

湯河原町川掘熊野神社の龍
川掘熊野神社向拝裏の刻印

※ 冒頭の写真:箱根町の飛龍の滝



 

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