東京案内
小柄なばあやさんの手を引き、銀座4丁目の交差点を渡る父の姿はどこから見ても親孝行な息子でした。
私がまだ4歳ころの遠い記憶です。
ある日曜日、私たち家族は東京駅へと向かいました。
「ばあやが東京見物に来るというから案内する」と父が言ったのです。
「ばあや?っておばあちゃんのこと?」と聞くと、
母は「玉宮町のおばあちゃんじゃないの。お父さんが小さいころに世話してくれたお手伝いさんのことよ。」と教えてくれました。
父の両親、つまり私にとって「父方の祖父母」は二人とも若くして亡くなっていて、父の兄弟達はそれぞれにお手伝いさんが付いて、身の回りの世話をしてくれたそうです。
昔父のお世話をしてくれたお手伝いさんの一人がその「ばあや」でした。
母も新婚当時は父の実家でしばらく暮らしたので、ばあやさんの事を知っていたようでした。
東京駅に出迎えに行き、ばあやさんと父、母、姉、私の5人で東京案内をしました。
銀座でお昼ご飯を食べたり、お土産を買ったりした記憶があります。
傍から見ればまるで本当の家族のように見えたことでしょう。
お手伝いさんだった人に、本当の親にするように優しくしてあげる父を見た私は、ばあやさんは幼かった父を不憫に思い、本当に親身になって世話をしてくれたのだろうと思いました。
ばあやさんは父の事を「坊ちゃん」と呼び、本当にうれしそうに話していました。
私がばあやさんに会ったのはその時一度きりでした。
父方の曽祖父は明治時代に米を買い付けて問屋に卸す所謂米問屋で、第二次大戦直前まで大々的に商いをしていました。
買い付ける米は全国に及び、時には海外から買い付けることもあったようです。
毎年の気候やコメの出来を予想して、全国の農家から買い付けるので、予想が外れたら大損するかもしれない難しい商売だったことでしょう。今で言う商社のようなものです。
父方の祖父はその家の次男坊だったそうです。二代目として店を仕切る長男とは違って、多少は気楽な立場の次男坊だった祖父は、大正時代初期には岐阜の田舎ではまだ珍しかった洋服やマントをおしゃれに着こなす若旦那だったとか。
ところが子どもも4人生まれて幸せの真っただ中、5人目の子を妊娠していた妻が結核に罹ってしまいます。
祖父はペニシリンを買うために大金を使い何とか治療しようとしましたが、当時はペニシリンはなかなか手に入らず、とうとう父が10歳の時に祖母は亡くなってしまったそうです。生まれたばかりの末の妹もすぐに亡くなってしまったそうです。
残された4人の子どもは、長女が中学生。長男だった父はまだ小学校4年生でした。弟と妹はまだ幼いうえに、父や伯父一家、そして祖父母も商売が忙しく、子ども達の面倒はそれぞれ若いお手伝いさん達が見ることになったのでした。
若いお手伝いさん達は「姉や」と呼ばれ、父と伯母には「ばあや」と呼ばれる年長の既婚のお手伝いさんたちが付けられたのです。
身の回りのことはお手伝いさんたちが世話してくれ、経済的には祖父の問屋で一家が働いていたために経済的に困ることは無かったそうです。
それでも、父が18歳の時に祖父までもが結核で亡くなってしまいます。
父は晩年「母が亡くなった時は本当に寂しかったなあ。長良川の土手に姉と二人座って泣いたものだ」と私に話してくれました。
普段はさっぱりとした気性の父でしたが、母親を早くに亡くしたことが人生観に影響したことは間違いないでしょう。
『物やお金がいくらあってもちっとも幸せではない。家族が元気で一緒に暮らせることこそが幸せなのだ。
どんなにお金があっても家族がそばに居ない寂しさを紛らわすことはできないのだ。』と。父は思っていたのでしょう。
そのせいで、私は父の転勤の度に一緒に付いて行き、引っ越しと転校を繰り返すことになるのです。
※写真は父の子どもの頃の家族写真:最前列が父の兄弟と従弟たち。2列目は曽祖父母たち。3列目が祖父母たち。 最前列の赤ん坊を抱いているのが姉やと婆やたち。