私の母方の祖父は神主でした。祖父は地域の人々の相談にのり、地鎮祭や祝い事などの際には祝詞をあげる役割を担っていました。 私も人生の後半を迎えた時、祖父のように人の悩みを聞いたり相談にのって、周りを照らしす存在になりたいと思ったのです。 50歳頃からまず、終活や整理収納について数学び、現在TCカラーセラピーのtcトレーナー、TCカラーヒーリングトレーナーとして活動しております。 カラーヒーリングは自分の心と体を自分で整え、癒す事ができるようになる。つまりセルフヒーリングメソ
tcカラーセラピストの資格を取り立ての頃。まだInstagramが何なのかも知らず周りにもあまりやっている人がいなかったのですが、このインスタ用のカラーボトルイラストを入手。2016年頃でしょうか? イベントで子ども向けに『自分のラッキーカラーでストラップを作ろう!』というワークショップをやりました。 男の子とママが参加してくれて、その子のラッキーカラーとは違うのだけれど、「どうしても紫で作りたい!」と男の子。 ママの方は「黄色でいいじゃない?」と説得しようとしていました
Instagramの身分証明的にFacebookのアカウントを再開したら・・・以前一方的にブロックしてきた人のFacebookの投稿が流れてきた。あれ?と思ったらブロックを外してた。私の投稿を覗き見してたんだな~と思い、今度はこちらからブロックしました。
パリオリンピックが始まりましたね。オリンピック期間中「努力」という言葉をたくさん聞くことになると思います。 世界で戦う為には、それぞれの選手やチームがどれ程の「努力」をしてきたことか?は私には想像もつきません。 生活の全てをオリンピックで「勝つ」為に費やしてきた人たちです。その差はほとんど無いかもしれないし、「運」が勝敗を分かるのかも知れません。 ただ、「自分は最大限努力したから勝てる」と思うのは奢りでしょう。 かのイチローさんは、 『報われるとは限らない。もっと言えば、
「子どもはまだできないの?」 上から目線というか、嫌味たっぷりの口調でKさんは言いました。 30代まで独身だった私は、結婚してからも仕事を続け、既に結婚から6年ほど経っていましたが、まだ私たち夫婦の間に子どもはいませんでした。 それでも、夫は楽観主義者で「心配ないよ。絶対できるから!」と自信たっぷりに言うし、義理の両親も一言も「まだできないのか?」などと無神経なことは言いませんでした。 ですから、私は子どもが居ないことを何とも思っていなかったのです。 それなのに、親戚で
私が還暦を迎えた年は平成が終わる年。翌年の5月には新しい天皇が即位される事が決まっていました。 そして迎えた2018年。平成最後のお正月でした。 私たち家族は実家に集まってお節料理ややローストビーフを囲んで、両親や姉一家といつも通りにお正月を祝ったのでした。 でも、2週間も経たずに私の母が自宅で脳出血で倒れました。救急搬送されたものの、翌日そのまま病院で亡くなりました。 突然の母の死は本当にショックでしたが、それよりも気掛かりだったのはそ既に90歳を超えていた父の事
私が高校生だったのは1975年からの3年間でした。 制服があまりスマートとは言えない無地の紺色のブレザーでしたから、秋口になるとマフラーを巻いて通学していました。 当時、父がお歳暮にもらったマフラーが何枚かありました。その中でも父は無地のカシミヤのマフラーしかしなかったので、派手なチェックのマフラーは新品のまま置いてありました。 「お父さんこれ使わないなら私に頂戴」と言って制服の下に重ね襟のようにして使っていました。ウールに少しカシミアも入っていたかも知れません。暖かい
一年を通じて、年中行事はなるべくやるようにしています。 例えばお正月の行事。 実は年末のしめ飾りや鏡餅の用意から始まりまっているのですが…「正月事始め」は12月の13日頃からと言われています。 我が家はしめ飾りと玄関の正月のお花は毎年用意します。煤払いや障子の張り替えなども年末にやる方もいるでしょうね。 私は少し暖かくなった3月に窓の大掃除などをやっています。 話を戻して、お節の準備。 母が生きていた頃は、実家で姉と私と母の三人で大晦日に「お煮しめ」や「なます」「田
中学や高校時代の同級生と久しぶりに会うと、必ずと言って良いほど「孫」の話になります。 私には孫はまだいませんし、友人達の子どもが何歳なのか?名前は?男か女か?といったことも覚えていないのですから、孫に至っては全く話について行けません…。 友人の子どもがどんな学校を受験したのかや、今どんな仕事をしているのかなど、何度聞いても忘れてしまうのです。 自分で言うのも変ですが、記憶力には自信があるのです。 でもそれは必要な事だったり、興味のある事だからこそ覚えるのであって、他
4年前に母が亡くなり、その3年後の去年、父が亡くなりました。 両親ともに、亡くなる日までごく普通に生活し、寝たきりなることも入院する事もなかったのです。 誰もが憧れる「ピンピンコロリ」の人生を実現したのでした。 両親を見送る以前から、私は身の回りの片付けが人生後半では大事だと思い、「整理収納アドバイザー」の資格を取ったり「終活アドバイザー」の勉強をしたりしていました。 ですから普通の人よりは頭では「終活」の事を分かっていたつもりでした。 それでも実際に両親を亡くした
人類が地球上に現れたのは20万年前と言われています。 気が遠くなるほど昔…かというと、地球が生まれたのが46億年前なので、つい最近とも言えますよね。 生命が誕生し、海から陸へと移動し、進化や絶滅を繰り返してきたからこそ今の私たちが存在するそうです。 考古学を専攻していた私が実際に発掘作業をしたのはほとんどが古墳時代前後の遺跡でした。 関東ローム層の下に埋まっていたのはご先祖様たちの生きた証でした。 それでも、私は地球の46億年の地層を全て掘り返したわけでは無いのです。
「虐待している親でもね、子どもたちは悪く言わないのよ」 親と一緒に住めない養護施設の教諭をしている人から聞いた言葉です。 酒ばかり飲んで働かない父親。妻や子どもに暴力を振るう父親。 恋に走り子どもを置き去りにした母親。 離婚後に同居した恋人が子どもに暴力を振うのを止められなかった母親…。 ニュースで毎日のように報道される毒親たちです。 ひどい親だ!と私たちが思ったとしても当の子どもたちは親のことを悪く言わないのです。 怒鳴られても、酒浸りの父でも、たまに機嫌が良い時には
えー、柄にも無い『丸文字』書いてる!(笑) この丸文字を書いていたのはあるIT関連の社長さん。 私の友人が本人の外見とのギャップに驚いて発した言葉でした。 ロマンスグレーのダンディな社長は声も素敵。長身で物腰も 柔らか。仕事もできるキレ者でした。 ところが・・・字が最悪でした(笑) 私は単に下手なんだと思ったのですが、よくよく思い返すと 確か丸文字っぽくて幼い感じがしたのです。 理数系の人は、読みやすいように丸っぽい数字を書きますが、同じようにひらがなや漢字も読みや
「愚痴が出るようになったら、辞めた方が良いよ」 かつて財団法人で仕事をしていた私は、いくつかのボランティアグループのお世話役もしていました。 全寮制盲学校でのボランティアや、いわゆる日雇い労働者の住む町での炊き出しボランティアなど、たくさんのグループがありました。 そしてメンバーたちは、シンパシーを持って活動に参加していたのです。 ところが、ボランティアを続けているとどうしても本音が出てくる事があります。 やってもらっている人達にもプライドがあり、同情されるのが嫌という
「お母さんの指輪やアクセサリー、持っていって良いからね。私はお義母様からもらったのがあるから」 母が亡くなった後、姉と私で遺品を整理していました。 母が持っていた指輪やアクセサリーがいくつかあったのです。確か山梨の宝石屋さんまで行って買ったものもあったと思います。 何百万円もする物ではなくて、ごく小さな石の指輪ばかりですが、普段使いには丁度良さそうでした。 母は宝石よりも、どちらかというと普段の洋服や靴にお金を使っていたのを思い出しました。 すらりとした体型だったので、稲
「面倒な事ほど自分でやりなさい」祖父はいつもそう言っていました。 そして、「他人に頼んだら結果はどうあれ、文句を言ってはいけない」とも。 例えば家にいる時に自分がこたつに入っていて動きたくない。けれども仕事で必要な本を取って欲しい。 そこで子どもに「そこの本を取って」と頼むとします。 子どもが「どの本?」と聞きます。 「そこの青い表紙のだよ」 「違う違う、右の分厚い方のだよ!」 「そっちじゃなくて経済って書いてある方」 「あー、まだ経済って漢字習ってないか…。」 と、結局