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誰にも言いたくない家族の話

2024年2月、私はうつ状態と診断された。
そうか、私はうつ状態だったのだと肩の荷が下りる気がした。精神科からもらった診断書を会社に郵送し休職生活が始まった。少し歪んでる私の家族、人生の話をできればと思う。


幼稚園〜小学生

私は地方都市の少し貧困の家庭で育った。家族構成は父、母、妹、祖母だった。

母はしつけが凄く厳しかった。幼少期の頃の鮮明に覚えている記憶は、私が母にこれ以上殴らないで欲しいと土下座してる記憶だった。家の中や外でも平気で私を殴る人だった。もちろん、言葉の暴力もあった。「お前が全部悪い」「お前のせいだ」「誰のおかげで生きてるいけると思ってるんだ」この言葉を毎日言われた。夜寝ていても起こしてわざわざ伝えにくるのだ。
その当時、母は私にとって神様だった。神様の機嫌を損ねると何をされるか分からない、私は必死に顔色を伺い毎日怯えるそんな日々だった。もうこの頃には母からの洗脳が始まっていた。

父から性的虐待を受けた。最初は胸や陰部を触ってくる所から徐々にエスカレートした。家の中でも外でも触ってくるのだ。私はやめて欲しいと懇願することしかできなかった。
母に父から触られることが不快と伝えたことがあったが母は軽く注意するだけ。
父はやめなかった、父の友達(男)にパンツを見せなきゃいけなかった、今思い出しても意味が分からない。
その行為にどんな意味があるのか、当時の私は幼くて知識もなく何も分かっていなかった。

妹は3つ歳が離れていた。可愛かった、人見知りな性格でいつも私の影に隠れていた。母は妹を溺愛していた。
私は許されなかったけど、妹は全部許された。守りたい愛おしいと同時に嫉妬の感情もあった。妹が皮膚の病気になった時、これも全部お前のせいだと母に怒られた。嫉妬の感情が妹のストレスになっていたのかもしれない、本当に申し訳ない。
でも妹は母から可愛がられてたと言う自覚はあったと思うし、母と一緒になって「お前はだめだ」って言い続けた。
妹がいたから児童相談所にも通報できなかった。私が母と妹の縁を切ってしまってはいけなかった、私がこの家庭では悪だし私が我慢すれば全てが円満にいく気がしてた。

祖母は私が殴られては時に守ってくれた。やりすぎだと咎めてくれるので好きだった。
どういう経緯でその言葉を発したのは謎だが、祖母が母に「あの子(私)は、人を殺すような子になる」という会話を聞いてしまった。遠目で聞いていたし、全ての会話を聞いてたわけではないからどんなニュアンスだったのか分からない。でも深く傷つき裏切られた気がした。私はこの日から祖母が嫌いになり、幸せになってはいけない人間なのだと思い込み始めた。

上記の環境で幼少期を過ごし学校生活も上手くいってなかったので、小学5年生の頃からストレスによる食欲不振が始まる。ご飯が食べられない、食べても吐いてしまった。どんどん痩せてしまう私に母もみかねて病院に連れていくのだが、医師からはストレスだねと言われた。担任も異変を感じ家庭訪問してくれたのだが、母が同席しているのに言えるはずがなく、虚しく終わった。

中学生〜高校生

中学生の頃になると、普通の親は殴らないということを知った。そして性行為についても。自分の家庭が異常なのだと気づき始めるのだ。
親との関係性が異常ゆえか、学校での人間関係も上手くいかなかった。いじめのターゲットになってしまった。容姿も散々なこと言われ、マスクが手放せない生活になった。なぜ不細工に生まれてしまったのか、普通に生きてはいけないのか。この頃から男性と話すのが怖くなった。
母との衝突も絶えることなく、包丁を投げられこれで死んでみろ!と言われた。今の時代切腹スタイルかーと呆然とした記憶がある。高校に入学する前、私は母の勧めで宗教に入った。

高校生になっても容姿について散々なこと言われたし、いじめもあった。担任に高校を退学したい旨を相談したが、何を言ってんの?的な回答が来たためとりあえず卒業を決意した。
自分の女性性が嫌になり、汚れている感じがした。この頃から自分の血が汚く遺伝子を残していくことに違和感があった。周りが将来像に語っている中、私は幸せになってはいけない呪いをかけ続けた。
高校卒業後は就職して欲しいとの意向だったが、これまた土下座を繰り返し奨学金を借りることでなんとか大学進学への道を掴んだ。だが、大学も母が選んだ所じゃないと入学できなかった。条件付きではあったが、大学進学できたことはとても感謝している。
また宗教の話も祖母の話も金銭的な話もごまんとあるのだが、長すぎるゆえ割愛させていただく。

大学生〜社会人

大学に入学すると自分が震災地出身だったので、震災について色々聞かれて不快だった。
世間を騒がせた土地だったので、あからさまな差別などもあるのかと思っていたが、時間も経っていたしみんな大人になっていた。
少し歪すぎる環境に身を置きすぎたせいか、周り同級生達が輝いて見えた。また私は一人なのだと。
大学生にもなると、高校生のように男性と話さないように逃げるということもできなく、話さなければいけなかったのだが、恐怖から冷や汗と震えという症状が出た。父親、高校の頃に受けた性被害色んなことが積み重なって男性がとても怖かった。この頃から謎の外国人にストーカーされ警察に行く話、下半身露出男等あるが、長すぎるので割愛。
就活が始まるが精神安定剤を服用し面接を受ける女が受かるわけもなく、11月頃まで就活し、地元採用の企業にギリギリ内定をもらう。アパートの騒音トラブルに耐えながらの就活は私の精神を削った。地元に帰りたくないのに、母の「帰ってきなさい」の一言で私は帰らなければいけないんだと思い込んだ。

社会人になっても母との衝突は絶えず毎日毎日喧嘩し、父は酒に酔って私の目の前で卑猥な言葉を言い続ける。その度に父からされた行為を思い出して食事を吐くそんな生活をしていた。
実家を出れば良かったのだが、会社員の給料なんて手取り15万以下だったし、奨学金の返済、なにより騒音トラブルがトラウマすぎた。
母は私に家を出てけとヒステリックに騒ぐくせに、その後涙を流しながら「お前がいなくなったら血の繋がった肉親がいなくなる」と私に言うのだ。完全に洗脳されてた、それが何年も続いた。
母はかなり複雑な生い立ちだったから、私が側にいてあげなければいけない呪いにかかっていた。
職場でも色んなことがあったのだが、休職にいたる主な理由はセクハラと私のプライバシーな情報を口外したことだ。
セクハラを受けた時、逃げられない状況で大人数でその人の年齢や娘がいたことなどもあり父親が重なってしまった。私に性虐待をする時の父と同じ目をしていた。何も聞こえない、何も見えない、動けなくなった。この世から一刻も早く消えたかった。
セクハラを受けた後も仕事を続けていたが、職場で体のラインがでる服を着ないようにしたし、その人に近付かないように過ごした。
私は家庭内のストレスが限界を超えていたので一人暮らしの準備を進めていた。その上で職場に申請が必要だったし、事情も話した。でも誰にも言ってほしくなかったこんな家庭のこと、一人暮らしのこと。
みんなは実家から出勤するのだ。私は普通の人間でありたかった、みんなのように。
そんなプライバシーな情報を口外したのだ、セクハラ野郎が。もう無理だと思った、全部奪われたと思った。全てを持っている人間のくせに(知らないけど)。
私は生きることを肯定できなくなって、死ぬことにした。SNSを全部削除して、友達には今までありがとうとメッセージを送った。
とりあえず海に行った、海で死のうと思った。海で死ねば家に帰らなくて済むと思った。
2月の海は暗くて寒くて冷たい。足を入れた瞬間冷たさで何も考えられなくなった。やっと死ねると思った、やっぱり私は自殺した祖母の血が流れているのだと。
まあ自殺に失敗したわけなのだが、一ヶ月も娘が行方不明でも警察に届けてない所を見ると流石私の母だと思う。
その後も自殺未遂を繰り返すので、保護入院の話も出たが親に連絡が行くと断固拒否した。
その後治療中でも職場の方達から信じられない行動を連発されてささっと退職することがベストだと思う。
ただ生きていく、美しくいるためには金がかかる。本当に生きていくってコスパが悪い。
なのでささっと消えようと思う、その前に私の人生の一部を残してみたかった。特別自分の人生が不幸で大変だとは思わない、母は私によく言っていた「五体満足で生まれただけでも感謝しろ」と。
最後にここまで楽なクソみたいな人生を読んでくれてありがとう、性虐待されて苦しんでる方達がいたら伝えたい。貴方は汚くないし奪われていない。生きてるだけで偉いのだと。
私の言葉は呪いじゃない、読んでいて色々思い出して苦しくなってしまったら申し訳ない。
苦しかったら逃げてもいいと思う、人生からも。



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