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袋小路人生

五体満足に生まれて、親兄弟がいて、衣食住があって、何かと有難い限りなのだが、本来、「両手ますかけ」という稀な良い手相であることから見ると、誰よりも幸運でハッピーであってほしいと本人は願ってきたが、実際、私の幸福感は右肩下がりだった。

保育園→小学→中学→高校と上がるにつれ、勉強、スポーツ、人間関係などを軸にどんどん悩んでいった。
幸い家族や団地の友達とは楽しくやっていたが、学校がしんどかった。よくあるところの仲良し3人のうちの2人が結託し、ハブられたことについては可愛いものだったが、学校の通信簿は5段階評価において2がほとんど。サザエさんのカツオのようにそれでもスポーツがで得意なら良いのだが、足が遅かったし、体育も良くても3、大体は2だった。好きな科目が体育しかなかった。でも、「好きこそものの上手なれ」とはいかなかった。
特別な病気を持っていたわけではないが、病弱はしばらく後を引いていたため、シーズンに一回くらいは熱や喘息で学校を休んでいた。

勉強については苦手だったし、好きになれる機会がなかった。宿題をせず、学校に行くということが小学3年生くらいから多くなっていった。
当時30代くらいの女性が、小3の私の担任だったが、刑事風で特に怖い先生だった。
一度目の宿題飛ばしは、細い差し棒でお尻をピシっと叩かれた。二度目は片頬をつねられながら、もう片頬をビンタされる。三度目、四度目と回数を重ねていくと、それが両頬になり、寸止めビンタだったのが、振りぬきになったりと、される側は痛い、見てる側は怖いとなり、ほぼほぼクラス全員宿題提出はなされていた。
今となっては引かれてしまうかもしれないが、先生に叩かれたとしても、血を流す訳でもないし、親に言っても自業自得とあしらわれ、ここで是非を問わないが、この時代、体罰は教育として成り立っていた。
そして、授業中には、先生にあてられ算数の問題が解けないとき、先生から「ちゃんと聞いてないからでしょ」と言われ、クラスの子たちからは「こんなのもわからねえの」と馬鹿にされ、笑われるということが幾度もあった。こちらの方が体罰よりもよっぽど嫌だった。勉強への苦手意識やトラウマとして蓄積し、心から勉強を排除するようになっていた。いくつか塾のようなものもやらされたが、続かなかった。

中学に入ると誰も納得いく説明なく、高校に行くため、テスト点数をとるため、勉強させられるようになった。当時「ビーバップハイスクール」や「ろくでなしブルース」などのヤンキーマンガに影響される連中が、どこの学校にも一部いた。ヤンキーが多めと言われていた我が中学は、それを制圧、根絶するためだったのか、私の代から特に校則が厳しくなり、定期点検というのが行われ、毎月、服装と髪型の検査をされた。ズボンが太さ、学ランの長さ、裏ボタンやベルト、靴下など、細かくチェックされた。髪型はスポーツ刈りか坊主かしかだめ。前髪が2㎝の長さもあれば、再検査があった。
勉強も先生も敵だった。尾崎豊の「15の夜」とか「卒業」という曲に妙に共感できた。

高校は偏差値が低い実業高校に進学した。人生設計をしてみての進学だったが、勉強から逃げたかったのも確かだった。はっきり言ってバカばかりだったので、勉強からは逃れられたのは良かったものの、ヤンキー度は中学に比べて増増で、全く馴染むことができず、苦しくて孤独な高校生活だった。

死にたいと考えたり、学校にいかず引き込もるというような選択肢を選ぶこともできたかもしれないが、部活や趣味などで自分をだまし、やっとやっとでバランスをとりながら、小中高12年、何とかやり過ごすことができた。
そして、このように苦しんできたことは誰も知る由もなかった。

今思えば、苦しいと思えたのは、もっとこうありたい!という願いや夢が強かったからかもしれない。まだまだ何もない自分であったとしても、このままで終わるものかと思っていた。

このしぶとさもまた「ますかけ」の特徴らしい。

挿入ソング:


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