
ヤギ
年始、午前六時、静かだった。
夜明け前の外はインクで一面を濡らしたように真っ黒で、等間隔に建てられた街灯の灯りが、かろうじて白や青に光って夜に抵抗している。民家の屋根の瓦や塀や石灯籠が暗い中にぼんやりとした輪郭を浮かべていた。僕はこの夜で眠ることができなかったのだ。石の塀を超えて垂れる庭木の枝が僕の髪の毛を撫でた。僕は歩いた。向かい風が吹き耳を冷やした。頬に生えた小さくて短い白い毛が先の方から一斉に凍って、触れればぱりぱりと落ちていきそうな気がした。そのうち僕はヤギ牧場についた。そこでは一人の女の子が地面に尻をつけて座っていた。その子は僕に対して横を向くような位置で寝ているヤギたちを観ているらしかった。女の子の髪は長く、まだ暗い外では横顔がよく見えなかったけれど、長い黒髪の艶が、街灯の灯りから届く微光に反射して綺麗な子だろうと思った。僕は吸われるみたいにしてその子に声を投げた。その子は少し驚いたようだったけれど、すぐ落ち着いた様子でこちらに手招きをした。その子は柵の向こうを指さしてあそこに子ヤギがいるの、と云った。「見える?」
僕は目を凝らした。親ヤギらしい大きな塊のそばで、白い手袋みたいな塊が横になっているのが見えた。頷いた僕に対してその子は満足した様子でまた子ヤギの方に顔を向けた。
「いつからいるの」と僕は訊いた。
「ついさっきだよ」とその子は云った。
「寒くないの」
「うん」
その子は着ていたジャケットの装飾や言葉のイントネーションに特徴があって、僕はなんとなくこの国の出身ではないんだろうと思った。僕は暗がりで謎の女の子と遭遇することについて少しの恐れもなかった。むしろ、いきなり声をかけてきた男に警戒もなく振る舞うその子の無頓着さを恐れた。
やがて空に日がさして地上を照らし始めた。
「なんでこんな早くからヤギを見てたの」と僕は訊ねた。
「君こそ、なんでこんな早くに歩いてたの」
「流れ星を追っかけてたらここについたんだ」
「うそつき」その子の頬が赤らんだ。どこかで鶏が鳴いた。ヤギはまだ寝ていた。