ショートショート「みがわり」

 男がコンビニで立ち読みしていると、隣に客が立った。本棚の横にあるコピー機に用があるらしい。
 男は隣の客をちらりと見た。
 上着のフードを目深に被っているが、肩幅の大きさから同性だとわかる。背もあまり変わらないくらいだ。
 客は財布から1枚のカードを取り出し、印刷台に置くと印刷ボタンを押した。
 紙が出てくるのと同時に着信音が鳴った。
 客は上着からスマホを取って電話に出ると、印刷した紙を持ってそのまま店を出ていく。
 男はすぐに客が忘れ物をしていることに気づいた。が、相手が電話をしているため声をかけるのはためらわれた。
 他に気づいている客はいないか周囲を確認して、男がコピー機を見ると、そこにはやはり忘れ物があった。
 電話に夢中になって忘れたか。
 手に取ってみると、それは免許証だった。
「サトウ……」
 男はとっさに外の駐車場を見た。サトウらしき後ろ姿が車に乗りこんでいるところだった。
 もし相手が気づいたらすぐに免許証をもどして、何も知らない振りをしようと男は身構えていたが、しばらくして車は走り去っていった。
 男はそれを呆然としながら見送った。
「あーあ」そうつぶやいて、ピントをずらした。ガラス窓に自分の顔が透けて見える。どこかで見た顔だと思った。免許証に目を落とすと、写真の顔とガラス窓に写った顔がどことなく似ているような気がした。
 それが男を惑わした。
 もう一度、周囲の客と店員、それから防犯カメラの位置を確認して、免許証をズボンのポケットにねじこみコンビニを出た。
 自動ドアを出る時はかなり緊張した。店を出てからも、駐車場、店からの百メートルくらいは、今にも後ろから店員が追いかけてくるのではないかとひやひやしたが、どうやら誰にも気づかれていないようだった。
「お兄さん、ちょっといいかな」
 ほっとした瞬間、声をかけてきたのは警察だった。
 免許証を盗んだことがバレたか。いや、それにしても警察ははやすぎる。
 男は怪しまれないよう平静を装って返した。
「なんです」
「ごめんなさいね。ちょっとだけ質問させてもらっていいかな」
「今急いでるんですけど」
「カバンの中身見せてもらって、何もないってわかればすぐに終わるんで。ご協力お願いします」
「……わかりました」
 カバンの中身を見て、いちいちこれはなんだと尋ねてくる警察官に、「水です。ペットボトルは水筒代わりです」「今は無職です」「前は工場で働いてました。ちょっと体崩しちゃって」
 男は次々とこたえていった。
「財布の中も見させてもらいますね」
 警察官が財布を開く。
 男は気にしてないような仕草で、警察官の指がどこへ向かうか注意深く伺った。
「あれ、なにか身分証とかない?」
 警察官が男を見る。
 男は言った。
「ああ、それならここに」
 男はズボンのポケットから免許証を出して見せた。盗んだ物だとバレた時のために、いつでも走れるよう体重を後ろに倒した。
「サトウさん……」
 警察官は男と免許証を交互に見比べた。
「はい、ありがとうございます」
「いえ」男はわずかに震える手で免許証を受け取った。
「ひとついいですか。なぜ免許証をポケットに?」
「ついさっき面接をしてきたところで。そこでも確認のためって見せてきたんです」
「そこって」
「あ、そこのちょっといったコンビニです」
「ああ、あそこの」
「もういいですか」
「結構ですよ。ご協力ありがとうございました」
 カバンも返してもらい、男は警察と別れた。
 ひとり暮らしの安いアパートに帰ってくると、男は洗面所の鏡の前に立った。
「まさか、警察も気づかないとは」
 男は静かな興奮に笑みをこぼした。
 免許証を取り出す。
 なんとなく似ているとは思ったが、職務質問中の警察官も見抜けないほどとは。用心深い警察が見分けられないなら、ほとんどの人は自分とサトウを同一人物として見るはず。
「これ、使えるぞ」
 男はいよいよ免許証を自分の物にしようとしていた。
 数ヶ月前、バイトを辞めてから男はふらふらしていたが、ついに金も底をつきそうで、これからどうしようかと困っていたのだ。
 警察に話した工場で働いていたというのはうそではない。うそではないが、それはもう十年以上前の話で、工場を辞めてからはバイトを転々としながら食いつないでいた。
「こんな年になってバイトに受かるのも一苦労だ。ましてや社員になるなんて。でも、これがあれば何とかなるかもしれない」
 男はサトウが免許を置き忘れたことを天からの恵みだと思った。
 それから男は仕事を探し、応募した。
 三社目で無事に受かり、男は晴れてサトウとして働くことになった。
 男が選んだのは、車で営業回りをする仕事だった。これなら仕事中のほとんどをひとりで過ごせる。


 男が働き出してから半年が経っていた。
「サトウさん、これから外回り? いってらっしゃい」
 会社の職員に見送られ、男はもう慣れた手つきで車を走らせていった。
 思っていた通り、仕事中はほとんどの時間ひとりだった。やり方を覚えてしまえばサボることもできた。
 男は自分の免許証も持っていなければ、車を運転したのはこの会社に入ってからが初めてだった。だが、これまで事故は起こしていない。
 ふらふらしている間、ゲームセンターでよくカーレースゲームをしていた。カーレースを題材にした漫画もずいぶん読んだ。ネットで調べれば、運転の仕方を丁寧に解説しているサイトはたくさんあった。
「お、今日も空いてるぞ」
 人気のない無料の駐車場に入る。男が見つけたサボり場所のひとつだった。
「はあ、眠い。この前も大丈夫だったし、少し寝るか」
 運転席を後ろに倒し、男は目を閉じた。
 この仕事についてからバイトをしていた時と比べてもらえる給料はうんと高くなった。だが、その分だけ仕事をする時間も増えた。それで男はしばしばこの駐車場にきて、睡眠をとっていた。
 午後になってようやく男は少しだけ本来の仕事をして、会社にもどった。
「サトウさん、お帰りなさい。そうだ、サトウさんもどうです。これからみんなで飲みにいくんですけど」
 男はできるだけ人と関わることを避けていたが、一度だけならいいかと誘いに乗った。
 久しぶりのにぎやかな雰囲気にあてられて、男はついつい飲み過ぎてしまった。
「サトウさん、よく飲んでましたね。ひとりで帰れますか」
「大丈夫、大丈夫。あ、お金ですね。今、出します」
 ふらつく手つきで財布を出すと、バラバラと中身が落ちた。
「あー、やっちゃった」
 男は億劫そうに落ちた物を拾い、顔を上げると、目の前にいた女がこちらをじっと見つめていた。
 しばらくして、
「サトウさん、これ落ちてましたよ」
 手渡されたのは、免許証だった。
 しまったと、男は一気に酔いが冷めた。
 それから、肩を叩かれる。振り返ると、さっきの女だった。まさか、バレたか。
 女が言った。
「サトウさん、免許の更新もうすぐですね」
「……はい」
 男の背中に脂汗がにじんだ。
 同僚たちと別れ、家路につきながら男は考えた。
 話しぶりから女は気づいていないようだったが、確かではない。変な噂を流されてしまっては面倒だ。だからといって、すぐに辞めるのも怪しまれる。
 時期を見て離れよう。
 男は飲みにいったことをひどく後悔した。
「おれはサトウであってサトウじゃないんだ。誘われたってもういかないぞ」
 自分の失態に怒りがわいてくると、酔いもいっしょにもどってきた。
「うっ、気持ち悪い」
 男はよろよろと近くの電柱に手をついた。
 いくらかましになって顔を上げると、道の先に交番があった。いつもの帰り道にはないはずだ。どうやら道を間違えたらしい。
 別の道をいくことも考えたが、男はもう一度自信をつけたかった。
「どうせ警察は気づきやしない」
 小ばかにしたように笑って、男はまっすぐ歩き出した。
 交番にはデスクに目を落として、書類作成をしている警察がひとりだけいた。
 男は心の中で警察を挑発した。
 ほらほら、他人の免許証を盗んだ挙句、仕事にも就いて運転もしている犯罪者が通りますよ。
 警察官は顔を上げない。
 男はほくそ笑みながら交番の前を通り過ぎた。
 少しいったところで、男は違和感に気づいて足を止めた。
「なんだ、今、何かとんでもないものを見た気がする」
 数秒前のことを必死に思い出し、交番を振り返る。
 警察には気づかれなかったはずだ。じゃあ、何が……。
 男はおそるおそる道をもどり、交番の前に貼り出された指名手配犯の顔写真を見た。
「サトウ……!」
 あわてて財布の中の免許証を取り出す。免許証の写真と指名手配犯を見比べてみると、それは確かにサトウだった。
「まさか、そんな……くそっ、やられた……」
 まさかサトウが犯罪者だったとは。これじゃあ、免許証を盗んだ意味がない。男はいろいろと悩んだが、ある考えにいきついた。
「いや、おれはサトウじゃないんだ。免許証を盗んだことさえ隠せればいい。どうせみんなおれの顔なんてたいして覚えていないし、仕事を辞めて遠くへ逃げれば捕まらない」
 男は急いで貯金を下ろし、身支度をしようと道を急いだ。
 その時、前から走ってきた誰かと勢いよくぶつかり、男は意識を失った。
 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
 医者にしばらく入院するよう言われ男は焦ったが、頭はぼうっと重く、体もなんだか動かしづらい。入院するしかなさそうだった。
 翌日の朝、警察がきた。
「サトウ、おまえに逮捕状が出ている」
 突き付けられた逮捕状に一瞬、男はうろたえたが、すぐに冷静さを取りもどした。
「待ってください。よく見てくださいよ。おれはサトウじゃない」
「バカを言うんじゃない。もう調べはついてるんだ」
「バカを言ってるのはあなたたちですよ。あんたらは見分けられないと思うが、おれはサトウにそっくりの別人だ」
「おとなしくした方が身のためだぞ」
 話を聞こうとしない警察に男は怒鳴った。
「これだから警察ってやつはいやなんだ! 見た目だけ偉そうにしやがって! いいさ、おれがサトウじゃないって説明してやる!」
 男はベッドの横にあった鏡をつかみ、自分の顔を見た。
 くすんだ肌、腫れぼったい目、薄い唇。
「これが、おれ……?」
 男はサトウと自分がいかに違うか説明しようとしたが、どこがどう違っているのか自分でもわからなかった。
「免許証! おれの財布に盗んだ免許証が入ってる。それと見比べればわかるはずだ」
 警察は仕方ないと免許証を渡した。
 そこに写っていたのは、鏡に映った顔そのものだった。
「う、うそだ。どうして……」
 男はこうなった原因を必死に考えようとした。
 そうだ、気を失った時だ。あの時、誰かとぶつかったような気がする。あれが本物のサトウで、おれに何か細工をしたんじゃないか。だが、どうやって。
 男はもう一度、鏡の中の自分を見た。
 自分はこんな顔じゃないと思いつつ、元の顔が思い出せない。それどころか、ずっとこんな顔だったのではないかとさえ思えてきた。
「おい、サトウ」
 名前を呼ばれ、男はつい顔を上げた。


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