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芸術教育の虚構~アートを学ぶという矛盾
中世ヨーロッパの芸術家たちを思い浮かべてほしい。
レオナルド・ダ・ビンチも、ミケランジェロも、
いずれも大学のキャンパスではなく、
工房という現場で技法を学び、
芸術家としての道を歩んだ。
彼らにとってアートを学ぶとは、
実践の中で磨かれるものであり、
法学や工学、医学といった学問とは明らかに異質な営みだった。
だが現代の芸術教育は、
彼らが育った「工房の文化」をどこか不完全な形で模倣し、
大学という場に持ち込んだ。
これは、料理の調理学部が存在するようなものだ。
趣味や自己表現の延長線上にあるものを、
学問として位置づけするのは無理筋に近い。
美術史は学問、自己表現は趣味
美術史や文化研究は大学において研究されるべきだろう。
それらは人類の歴史や社会の変遷を知る手がかりとなる。
だが、油絵や日本画、彫刻といった
個人の創作活動の場合は話が違う。
好みに依存する美術の評価基準
かつて池田満寿夫が著作で指摘したように、
芸術大学の入学試験での合否はほとんど「運」だという。
それはつまり、美術というものが
そもそも客観的な評価基準を持ち得ないことを言っている。
合格した者が特段優れているとは限らず、
また不合格だった者が才能を欠いているとも言い切れない。
基準が曖昧な不確実性に満ちた分野であるといえる。
実用性を欠く現代の芸術教育
さらに、大学で美術を学んだからといって、
それが実際の経済活動に結びつくケースはどれほどあるのだろうか。
お金じゃないという意見があるとはいえ、
国公立の芸術大学では決して少なくない税金が投入されているのだ。
中世の工房もまた、支配者や教会の庇護を受けていたが、
そこには教会や貴族の政治的・宗教的意図が
込められた依頼制作が中心だった。
つまり、社会の一部としての実用性があった。
しかし現代の芸術大学で学んだ「自己表現」が、
それほど社会にリターンをもたらしているようには見えない。
美術展などで多少の経済を潤す程度だ。
だから、使われた税金の観点から、
もう少し投資効率について議論がなされるべきだ。
技術習得の場としての工房と大学の違い
日本でも、かつては美術教育の中心は工房であり、
徒弟制の中で師匠から技術を学ぶ形式が主流だった。
それは、芸術が実生活と結びついた職人的技術だったことを示している。
現代の大学教育のように、
美術を自己実現の手段として捉える視点とは異なり、
社会的役割を果たすための手段だった。
しかし、現代では状況が全く違う。
何十倍もの激しい競争率の中から「選ばれた者」の多くはその後、
自分の表現を持続的にお金に変えることができていない。
果たして芸術大学はその価値を証明していると言えるのだろうか。
SNS時代における芸術
現代ではデジタル技術の発展により、
誰もが容易にアートに触れることができ、
YouTubeやSNSで自己表現を発信できる時代になった。
これにより、「美術大学の必要性」は一層薄れている。
学歴に関係なく、優れた作品を生み出せる人間は生み出すし、
逆に教育を受けても凡庸な作品しか生み出せない場合もある。
この現実を無視して、美術教育に多額の資金と労力を注ぐことは、
社会的にも個人的にも合理的とは言えない。
芸術大学の存在意義とは何か?
結局、芸術大学の存在意義とは何なのか?
それは、趣味の延長を学問として正当化するための場なのか。
それとも、社会的には評価されにくい「個人の自己表現」にお墨付きを与えるためだけの仕組みなのか。
いずれにせよ、私たちはこの矛盾と真剣に向き合うべきだろう。