恐れとご利益の宗教か?人格的な関係か?
[列王記 第二 17:32,33]
彼らは主を礼拝したが、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行った。彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちが移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた。
今日の聖書箇所
II列王17:24〜33
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
北イスラエルは遂にアッシリアによって滅亡してしまいました。その北イスラエルの領土であったサマリアには多くの異邦人が移住させられてきました。
アッシリア王国はこのように占領した国々の人々を他国に捕囚して、異民族と雑婚させることでその民族のアイデンティティを崩し、二度と反乱を起こさせないという政策をとっていたのです。
サマリアの地に移住させられてきた異邦人はそれぞれの国の神々を持ち込んできたのですが、サマリアの地で獅子の殺されるという出来事が起こったので、サマリアの地の神をも拝まなければならないと思い、そのようにすることを王に求めるのです。
[列王記 第二 17:26,27,28]
彼らはアッシリアの王に次のように報告した。「あなたがサマリアの町々に移した諸国の民は、この土地の神についての慣わしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送り込みました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの土地の神についての慣わしを知らないからです。」そこで、アッシリアの王は次のように命じた。「おまえたちがそこから捕らえ移した祭司の一人を、そこに連れて行け。行かせて、そこに住まわせ、その土地の神についての慣わしを教えさせよ。」こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。
しかし主を礼拝すると言ってもサマリアでは元々、偶像崇拝が盛んに行われていたのであり、律法、御言葉に基づく礼拝ではなく、主なる神に自分勝手な宗教儀式をしたに過ぎません。
そして彼らはそれと共に自分たちの国々の偶像を作り、その偶像を崇拝していたのです。サマリアでは典型的な混合宗教が成立していったのです。主なる神も自分たちの神々も全く同列に置いて、崇拝していたのです。
彼らがそのような混合宗教を作り上げていった理由は第一に恐れがありました。サマリアに入植して獅子に殺されるという災いが起こったので、その地の神の祟りだと恐れたからです。それを宥めなければならないと思ったので、その地の神に対する儀式を学んでそれを行うようになったのです。
また自分たちに国の偶像を作り、それを崇拝したのはご利益を求めてそうしたのです。彼らの混合宗教は恐れとご利益に基づくものだったのです。そこには自分たちが崇拝している神々がどんな神であるかとか、その神々が何を求めているかなどということは全く問題になっていないのです。
自分たちに災いを下さないで、ご利益を与えてくれる神々であればどんな神々でも何の問題もなかったということです。それでは自分の願いさえ叶えばそれでいいというご利益宗教と祟りを恐れる恐れだけがあったのです。
そしてこれは現代でも多くの宗教に共通していることではないかと思います。恐れとご利益が宗教を求める最大の動機だからです。しかし聖書の信仰はこのような宗教とは全く違うのです。
聖書の信仰は生ける神との人格的な関係が中心であり、その神と愛と信頼に満ちた関係を築いていくことが目的だからです。何か災いがあれば神の怒りだと恐れるのでもなく、何かのご利益だけを求めて神を動かそう、利用しようとするのではなくこのお方を愛し信頼して従っていく中で祝福を受けていくことを求めていくのです。聖書の信仰は何かの具体的な目に見える祝福より神ご自身とその御心を知るという目に見えない祝福を追い求めていくことに中心があります。
どんなにイエス様、イエス様と言っていても何かあるとすぐに恐れ揺れ動いたり、また目に見える祝福や現象によって愛されているとか愛されていないとか、そんな未熟なご利益信仰にとどまってしまうことが多くあるのです。
そうなってしまうのは神の御言葉を知らず、それを信じないで自分勝手にイエス様を信じているからなのです。混合宗教はイスラエルの歴史にずっと続いていたものでしたが、それは現代の私たちにも頻繁に現れてくるのです。イエス様を信じていますと言っていても恐れとご利益で動いているだけならそれはただ神を利用するだけの混合宗教と何も変わらないことになってしまうからです。
主なる神はご自身とその御言葉を知り、ご自身との愛と信頼の関係を築くことを求めておられます。その関係が深まれば深まるほど義と平和と聖霊による喜びが満ち溢れるようになるのです。
私たちの信仰はそのような主なる神との生きた関係に基づくものとなっているかいつも点検していきたいと思います。いくらイエス様と言っていても恐れとご利益に基づく信仰はただの自分勝手な宗教であり、それによっては救われないからです。