見出し画像

死より恐ろしいことがあります

[列王記 第二 9:30,31,32,33]

エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直して、窓から見下ろしていた。エフーが門に入って来たので、彼女は「お元気ですか。主君殺しのジムリ」と言った。彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見下ろしていたので、彼が「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とし、彼女の血が壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。

今日の聖書箇所
II列王9:27〜37

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エフーはユダの王アハズヤも討ち取ります。アハズヤがアハブ一族の仲間となり偶像崇拝と悪の道に歩んでしまったからです。

[列王記 第二 9:27]

ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハ・ガンの道へ逃げた。エフーはその後を追いかけて、「あいつも討ち取れ」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。

アハズヤはエフーから傷を負わされながらも逃げ延びようとします。しかしその努力も虚しくメギドで彼は死んでしまうのです。

このアハズヤの姿から学ばなければなりません。アハズヤはただ目先のことだけ考え、流されて生きてしまい、必ず来る最後を考えることができなかったからです。

悪しき者たちの仲間となり、罪の道を歩むなら最後にどうなるのか?アハズヤは何も考えることなく、いやそれを考えることから逃げ続けて生きてしまったのではないでしょうか?しかし死と罪に対する神の裁きからは逃げることはできずそれに直面することになってしまったのです。

アハブの妻であるイゼベルの死はさらに悲惨でした。

イゼベルも自分が死ななければならないことは分かっていたのです。しかし最後に化粧をして、エフーを嘲るのです。主君殺しのジムリとはエラという王に反逆して7日で殺された反逆者のことです。

エフーに対して「お前もそのように呪われる」と呪いを宣言しているのです。しかしエフーはジムリとは違って神が裁きのために立てられ油注がれた神の器でした。

イゼベルは最後まで主なる神に挑戦し、死を前にしても悔い改めることなく高慢で神と人を呪いながら死んでいったのです。それがイゼベルの生き方でした。その結果はどうなったのでしょうか?

[列王記 第二 9:34,35,36,37]

彼は中に入って食べたり飲んだりし、それから言った。「あののろわれた女の世話をしてやれ。彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両手首しか残っていなかったので、帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれもこれがイゼベルだと言えなくなる。』」

呪われた悲惨な死を迎えることとなってしまいました。しかしそのような死よりも恐ろしいことはこのように生きた者は呪われた地獄で永遠に苦しまなければならないということです。肉体の死は一瞬ですが、地獄の刑罰は永遠に続くのです。イゼベルの死はその地獄の刑罰の恐ろしさについての警告です。

イエス様が十字架につけられた時に二人の強盗も同じように十字架につけられました。その十字架の苦しみの中で一人の強盗は真実に悔い改め、もう一人は最後まで悔い改めることなく神と人を呪いながら死んでいきました。

誰もが苦しみを通して心砕かれるわけではなく、誰もが死の恐怖を前にしても神を求める者となるわけではないのです。それゆえ今日というこの時が大切なのです。今日、私たちは悔い改めることができ、今日、神を求めることができるからです。そのように生きてきた者たちだけがこの地上の生涯の最後を平安の中で迎え、天の御国の希望を持って天に駆け上ることができるからです。

エリヤを最も迫害したのはイゼベルでした。エリヤの生涯は苦しみと迫害の生涯でしたが最後は火の戦車に乗って天へと昇っていきました。イゼベルはこの世では富と繁栄と権力をほしいままにしたのですが、悲惨で呪われた死を迎え、地獄へと下っていきました。

必ず来る最後を覚えつつ悔い改めるチャンスを逃さず生きる者こと最も賢い者であることを忘れないようにしたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?