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宗教的な高慢

[使徒の働き 7:48,49,50]

しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』

今日の聖書箇所
使徒7:17〜50

今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。

最高法院で弁明するステパノはアブラハム,ヨセフを例に出してユダヤ人指導者たちの罪を明らかにしました。

そしてここではさらにモーセと幕屋,神殿についての歴史を振り返りながら,ユダヤ人指導者たちの罪をより明確に指摘していくのです。

イスラエルをエジプトの奴隷状態し,荒野の40年を導いたモーセもまた最初から人々に受けられることも,認められることもありませんでした。

神の不思議な摂理の御手でエジプトの王女の養子とされたモーセでしたが,40歳の時に同胞のイスラエル人を助けようと立ち上がりましたが,それは惨めな失敗に終わりました。

同胞のイスラエル人はモーセを指導者として認めることはなかったのです。それゆえモーセはミディアンの荒野に逃げてそこで40年を過ごすことになります。そしてモーセはその荒野で燃える柴の幻の中で生ける神と出会い,その御声を聞くのです。

[使徒の働き 7:30,31,32]

四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました。その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。『わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは震え上がり、あえて見ようとはしませんでした。

ステパノは神殿と宗教儀式を誇る指導者たちにそのような生ける神との出会いとその御声を聞くことこそが信仰の本質であると言っているのです。

しかしそのような神と出会い,御声を聞いて再び民を救うためにエジプトに遣わされたモーセでしたが,イスラエルの民はモーセに反抗し,執拗に敵対していきます。

[使徒の働き 7:35,36,37,38,39,40]

『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。この人が人々を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年の間荒野で、不思議としるしを行いました。このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。ところが私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、アロンに言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き出した、あのモーセがどうなったのか、分からないから。』

ステパノはここでその昔,イスラエルの民が神が立てたモーセを拒み,モーセに敵対していったように,あなた方は神がメシアとして立てられたナザレのイエスを拒み,敵対し,十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。

ユダヤ人の指導者たちは自分たちこそモーセの後継者で律法を守っていると誇り,その律法に従って神聖冒涜の罪でナザレのイエスを十字架につけたのだ,それは神の喜ばれることだったのだと思っていたのです。

そのような指導者たちに対してあなた方はモーセに逆らった先祖と同じく,メシアであるイエスに逆らい,神に敵対したのだとその罪を明確に指摘しているのです。

そしてステパノは荒野の幕屋,ダビデ,ソロモンによる神殿建設というイスラエルの歴史を振り返り,神は幕屋や神殿という建物やそこでの宗教儀式に限定されるお方ではなく,天地を創造された生ける神であることを強調するのです。

どんなに神殿があり,そこで盛んに宗教儀式がなされていたとしても。生ける神との人格的な関係とその御言葉への従順がなければイスラエルの民がバビロンへ捕囚された時と同じ罪を犯しているとこれまた厳しく彼らの罪を指摘するのです。

最高法院にいたユダヤ人の指導者たちはステパノの説教によって自分たちのプライド,誇りがズタズタに踏みにじられたように感じたことでしょう。彼らの誇りであった神殿もそこでの宗教儀式も伝統もステパノによって聖書を根拠にして明確に否定されたからです。

しかもステパノは正規の宗教教育を受けた指導者でもなく,宗教的な権威も全くない普通の人だったからです。そのような人から自分たちの罪と偽りが暴かれてしまったのです。

彼らはイエス様の御前でも悔い改めることはできませんでしたが,ステパノによって罪を明確に指摘されても悔い改めることはできませんでした。宗教的な高慢と偽善,固定観念に縛られてしまっていたからです。

そして私たちもまたそのような危険性が常にあることを覚えなければなりません。宗教的な熱心というのは人間の肉の働きであり,それはどんなに熱心でもそこには自分の行いや目にみえるものを誇る高慢が生まれ,そのような高慢は偽善や固定観念の中に人を閉じ込めてしまうからです。自分が見えなくなってしまうのです。

信仰生活をしていく中で私はこれだけ長く信仰生活をしてきたとか,このような働きを成し遂げてきたとか,こんな地位や役職についているとか,そのようなことがわずかでも誇りとなるなら,それはとても危険なことです。それは宗教的な誇り,宗教的な固定観念や偏見になってしまう可能性が十分にあるからです。

信仰とはどこまでも神との人格的な交わりに中心があるからです。そのような神との人格的な交わりの中にある者は決して人の何かや目に見えるものを誇ることはしません。そのような人は信仰が成長すればするほど謙遜になり,ただ神にのみ栄光をお返しするようになるからです。それが敬虔な信仰です。

宗教的な熱心というのはどんなに熱心であってもどこまでも自分のためなのです。しかし敬虔な信仰とはどこまでも神のためであり,ただ神の栄光を求めるものなのです。両者とも表面的には似ている部分がありますが,しかし結ばれていく実は全く違うものとなっていくのです。

それゆえいつも祈って聖霊と御言葉によって心を点検し,偽りの熱心を分別していかなければならないのです。

今日の祈り
主よ,自分の義を誇り,目に見えるものに心奪われる者を憐れんでください。ただ主とその十字架の恵みを誇る者とさせてください。

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