信仰生活は花嫁修行です
[テサロニケ人への手紙 第一 5:23,24]
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
今日の聖書箇所
Iテサ5:23〜28
今日もテサロニケ人への手紙から恵みをいただいていきたいと思います。
第一テサロニケの最後の部分です。使徒パウロは自分の激しい迫害に会っていますし、テサロニケの聖徒たちも迫害と試練の中に会っている中で彼らのところに会いに行きたいと思ってもいけない、そういう状況の中でこの手紙を書いています。
使徒パウロはそれゆえ遺言のような思いでこの手紙を書いているのではないかと思いますし、最後の部分には最も大切なことを伝えるはずです。それゆえこの手紙の最後も祈りとなるのです。
使徒パウロは困難の中にあるテサロニケの聖徒たちのことを思いながら、日々祈りながら、恐らく涙で祈りながらこの手紙を書いたことでしょう。そのような使徒パウロがテサロニケの聖徒に最も願っていたことは彼らが主の再臨に備えて完全に聖なる者となることでした。
花婿なるイエス・キリストがまもなく自分たちを迎えに来てくださる、それに備えてしみも傷もない花嫁となって整えられていくことを祈り願っていたのです。
信仰生活の目的はまさにここにあるのです。花婿なるイエス・キリストが再臨された時に純潔な花嫁となって主の御前に立てるように自分を整えていくこと、そのために信仰生活があるのです。
信仰生活とはイエス様との結婚式そして結婚生活の備える花嫁修行だということです😅あらゆる点でイエス様に喜ばれる花嫁となっていくこと、その思いにおいて、行いにおいて、価値観において、立ち居振る舞い全てにおいて主に喜ばれる花嫁となっていくこと、そのために信仰生活があるのです。そしてあらゆる点で主に喜ばれる者となっていくことが聖なる者となっていくこと、聖められるということなのです。
しかし私たちの中には主に喜ばれないことを欲する肉の欲があり、罪の性質が残っています。それゆえ聖なる者となっていくことはその肉の欲、罪の誘惑との激しい戦いとなっていくのです。それは簡単なことではありません。
私たちはどのようにしてイエス様の花嫁に相応しく聖なる者として整えられていくことができるのでしょうか?
その第一が祈りです。使徒パウロもテサロニケの聖徒たちのために切に祈りました。そして使徒パウロもまたテサロニケの聖徒に祈りを要請しています。
祈りなくして私たちは決して聖められることはありません。なぜなら祈りなくして聖霊様の助けと導きを受けることはできないからです。私たちは自分の力や決心で決して聖なる者となることなどできず、ただ聖霊様の助けと導き、聖霊様の働きの中で少しずつ聖なる者へと変えられていくのです。
それゆえ私たちはお互いにために絶え間なく祈らなければならないのです。それが絶えず祈るということです。お互いの霊的な成長、信仰の成長のために絶えず祈るのです。
第二に聖徒の交わりの中にとどまることです。
[テサロニケ人への手紙 第一 5:26]
すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。
教会の交わり、聖徒の交わりから離れて私たちは聖なる者となっていくことはできません。自分一人で聖なる者となることはできないからです。互いに愛し合い、支え合い、助け合うことを学ばなければ聖なる者となることはできないからです。人間関係の中で忍耐を学ばずして聖なる者となることなどできないのです。
第三に御言葉を聞き続けることです。
[テサロニケ人への手紙 第一 5:27]
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。
人は忘れやすい存在であり、流されやすい存在なのです。それゆえいつも御言葉を聞いて修正され、矯正され、戒められ、整えられていかなければあっという間にわがままで自己中心的な古い人に戻ってしまうのです。
私たちの生きている時代に主の再臨がなかったとしても、私たちはやがて必ず主の御前に立つ日が来ます。祈りと教会の交わり、そして御言葉によって日々聖なる者、イエス様の純潔な花嫁となることを追い求めていく者となりたいと思います。