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どんな価値を追い求めて生きていますか?

[ネヘミヤ記 11:11]

ヒルキヤの子セラヤであった。ヒルキヤはメシュラムの子、メシュラムはツァドクの子、ツァドクはメラヨテの子、メラヨテはアヒトブの子である。セラヤは神の宮のつかさであった。

今日の聖書箇所
ネヘミヤ11:10〜21

今日もネヘミヤ記から恵みをいただいていきたいと思います。

これからは先祖たちのような失敗を繰り返さないように律法に従うと指導者、祭司、レビ人そして民も誓い、印を押しましたが現実はそれほど簡単ではありませんでした。

律法を守るためには神の宮と神の宮での礼拝を守らなければならなかったのですが、そのためにはエルサレムに住むことが必要でした。しかしエルサレムの町は十分の整備されておらず、とても不便でした。そして防備も完全ではなくいつ敵の襲撃を受けるか分からない状況だったのです。

帰還したユダヤ人たちは経済的にとても苦しく、農業をしたり、牧畜をしたりすることが必要だったのです。しかしエルサレムに住むならばそれはとても難しくなってしまいます。

バビロンからユダの地に帰還することだけでも大きな犠牲を払うことだったのですが、エルサレムに住むことはさらに大きな犠牲と献身が必要だったのです。

ここに出てくる人々はそのような大きな犠牲を払い、主に献身した人々だったのです。なぜそこまで出来たのでしょうか?

ここに出てくる人たちは神の宮とそこでの礼拝を守るために献身した人たちですが、それは霊的な価値を知っていたということです。

人は皆、何かの価値を追い求めて生きる存在です。自分という存在の価値が増える時に満足感を覚え、その価値が減ることを感じる時に虚しさや寂しさを感じるものです。

大きな犠牲を払ってエルサレムに住んだ人々は霊的な価値を追い求める人々だったのです。それによってこの世的な価値や利益は全くなく、かえって損をするだけだったのですが、主がその事を覚えてやがて必ず報いてくださることを知っている人たちだったのだと思います。

主なる神に対する献身というのはただの我慢大会ではありません。主なる神に対する献身と従順には必ず報いがあるのです。その報いは多くの場合、この地上においても与えられますし、子孫がそれを受けることも多くあります。しかしたとえそうでなくても天においては必ず報いが用意されているのであり、それは永遠に失われることがありません。

天における報いとその価値を知っている者が献身の生涯を送ることができるのです。

またそのような人たちはこの地上で与えられるものの虚しさも知っている人たちなのです。

この地上で与えられるどんなものも、どんな価値もやがて消えてなくなってしまいます。死ぬ時にはみな一人で死んでいかなければならず、死ぬ時に持っていけるものは自分の魂だけなのです。

それを知っている者は目に見えるものを追い求めることから目に見えないものを追い求めるようになり、この世で価値あるものを蓄えるのではなく、天で価値あるものを蓄えるようになるのです。

ここに出てくる人たちはこの世の人、肉の人から見るなら、あえて損をすることを選ぶ愚かな人のように見えるのですが、霊的な人、神の人から見るなら永遠に失われないものが何かを知っている本当に知恵ある人であることが分かるのです。

人はみな無限の価値をもつ神のかたちに創造されているのでどのような人も何かの価値を追い求めて生きています。それゆえ自分が追い求めている価値が本当に価値あるものなのか、よくよく考え、調べ、尋ね求めることがとても大切になってきます。

栄華を極めたソロモン王、なすこと全てが成功していったソロモン王が晩年にこのように告白しているのです。

[伝道者の書 4:4]

私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。

ソロモンはどれほど成功し、どれほど人に認められ、どれほど人にほめられてもそれは風を追うように虚しく、消えていくことを知り、その虚しさと痛みに死ぬほど苦しみました。

一方、殉教の死を前にして使徒パウロはこのように言っています。

[テモテへの手紙 第二 4:6,7,8]

私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

私たちはこの世の価値と霊的な価値のどちらを追い求めて生きているでしょうか?霊的な価値を知る恵みを祈り求めていきたいと思います。

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