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アリの一穴

[列王記 第二 10:9,10]

朝になるとエフーは出て行き、立ってすべての民に言った。「あなたたちに罪はない。聞きなさい。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかし、これらの者を皆殺しにしたのはだれか。だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」

今日の聖書箇所
II列王10:1〜10

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エフーによるアハブ一族に対する神の裁きが続きます。

エフーはアハブの子どもも一族もアハブの家の属していた者たちを全て滅ぼしてしまいます。このような現代の私たちにとってはあまりにも残酷で理解できない箇所が聖書にはいくつか出てきますが、これらの箇所は第一に古代という時代背景を考えなければ理解できません。古代の倫理と現代の倫理とは全く違うからです。

第二にこれらの箇所は霊的に解釈しなければなりません。文字は殺し、霊は生かすと使徒パウロは言っていますが、霊的な真理をつかみとり、それを適用することが大切です。

アハブの家族一族がエフーによって根絶やしにされていくことの中には罪がいかに恐ろしい結果を刈り取ることになるかを教えています。

現代は罪を罪とも思わない時代です。罪が文化とか人権とか自由とかそのように言い換えられて美化されています。しかしどんなに言い換えても罪は確実に私たち自身と私たちの周りの人々を破壊していくことになるのです。

アハブとイゼベルは偶像崇拝の罪を北イスラエルの国中に広め、指導者として国全体を汚し、腐敗させてしまいました。それだけではなく主の預言者たちを殺し、根絶やしにしようとしました。

そのようなアハブとイゼベルに対してエリヤは数々の奇跡によってイスラエルの神こそ真の神、唯一の神であることを示し、何度も悔い改めのチャンスを与えたのです。それにも関わらずアハブとイゼベルは主なる神に挑戦し続けていきました。

それだけではありません。ナボテという全く無実の人を貪欲と謀略によって虐殺し、その土地を奪い取りました。それらのアハブとイゼベルそしてその一族、一党の罪が積み重なり遂に裁きが下されることとなってしまったのです。

そしてその罪の刈り取りは一族一党全てが滅ぼされることになるという非常に厳しいものとなってしまったのです。一つの罪はさらに大きな罪を生み出し、罪は雪だるまのように大きくなり、勢いを増し、それは自分と周りの人たちを破壊していく巨大な流れとなっていくのです。

その罪による悪しき流れに呑みこまれてしまうなら、そこから逃れ出ることは不可能に近いことになってしまいます。それゆえ罪は小さな段階で悔い改め、罪から離れることが何よりも必要で大切なことになっていきます。

アリの一穴という言葉があります。アリが開けたような小さな穴から崩壊が始まるということです。悪魔は私たちが罪を妥協するように絶えず誘惑して、一度妥協すると次の妥協へと導き、やがて何もかも妥協させて私たちを盗み、殺し、滅ぼしてくるのです。

これくらい何でもない、1回だけなら大丈夫、そんなことは誰でもしていると私たちに妥協させて罪を犯させその隙間から入り込んで全てを崩し、破壊してくるのです。

エフーはアハブの一族一党を根絶やしにしましたが、私たちもまた小さな罪と不従順を甘く見るのではなく、それを悔い改め、断ち切っていかなければやがて罪に飲み込まれてしまうことになってしまうことになりかねないのです。

それゆえヘブル書の記者はこのように勧めています。

[へブル人への手紙 12:4]

あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

次にアハブ一族一党が根絶やしにされたことは罪に対する神の聖なる裁きがいかに恐ろしいものであるかを示すと共に主イエス・キリストの十字架がいかに大きな恵みであるかを教えています。

私たちは皆、罪を犯してしまう弱い存在だからです。しかし私たちにはその罪を償う方法がありません。罪を償う方法がなければやがて私たちも積もり積もった罪の刈り取りをすることになってしまうのです。私たちもまた自らの罪ゆえに神の聖なる裁きを受けて滅ぼされなければならない者たちだったのです。

しかし罪なき神の御子イエス・キリストはその私たちの全ての罪に対する神の裁きと呪いを代わりに引き受けて嘲られ、罵られ、刺し通され、砕かれて、呪われた者となって十字架で血を流して死んでくださり、その罪の償い、贖いを成し遂げてくださったのです。

その十字架の血によって罪の代価は全て支払い済みとなったゆえに私たちはただそれを信じるだけで罪から死から呪いから救われることができるのです。罪に対する神の裁きから救われることができるのです。

主イエス・キリストの十字架はあまりにも残酷で悲惨なものです。どうしてそんな死に方をしなければならなかったのか。それは罪の刑罰、罪に対する神の裁きがそれほど恐ろしいものだからです。しかしそれゆえに信じる私たちはその罪の刑罰から救われ、罪のない神の子とされて、罪に打ち勝つ聖霊さまという新しいいのちをいただいて罪と死と悪魔に打ち勝ちながら天の御国へと歩むことができる者とされたのです。ハレルヤ✝️

この恵みを知った者は罪を犯しても大丈夫などとは決して思うことはありません。赦されているからありのままでいいなどと甘えて恵みを無駄にするようなことはしません。日々妥協なく罪を悔い改め、イエス様の十字架の血の恵みと聖霊様の力をいただいて栄光から栄光へとイエス様の似姿に変えられて霊的に成長していくことを追い求めるようになっていくのです。

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