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イエスと共に十字架につけられた強盗
[ルカの福音書 23:40,41,42,43]
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
今日の聖書箇所
ルカ23:33〜43
今日は受難週5日目。ルカによる福音書から恵みをいただいていきましょう。
イエス様はいよいよ十字架につけられます。
イエス様はまずご自分を十字架につけた人々の赦しを祈られます。
[ルカの福音書 23:34]
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
人々は無惨な姿で十字架につけられたイエス様を思う存分罵り、嘲ります。
[ルカの福音書 23:35,36,37]
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
ここでもサタンはイエス様に自分を救え、十字架から降りて来いとなお誘惑し続けているのです。イエス様には12軍団以上の天使たちを自由に用いてそうすることも簡単にできたからです。
しかしもしイエス様がそうしてしまうなら父なる神の御心に背くことになり、私たち人間を罪から救うという父なる神の救いのご計画も挫折してしまうことになるのです。
誰一人としてイエス様が自分たちの罪のために、自ら進んで十字架の苦しみを受けてくださっているなどとは理解することができず、全ての人がイエス様は惨めな敗北者だと思って思い切り嘲るのです。
そしてイエス様と共に凶悪犯罪のゆえに十字架につけられた二人の犯罪者たちも最初は同じようにイエス様を嘲り、罵るのです。
[マタイの福音書 27:44]
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
二人の強盗の中には怒りと憎しみしかなかったのでしょう。この世を恨み、人を恨み、自分の人生を恨み、神を恨み、死を前にしても憎しみと怒りしかなかったのです。
しかしそのような中でイエス様は自分を十字架につけた人たち、そして全ての人たちのために祈り続けていたのです。その祈りが聞かれ、遂に強盗の一人の心が砕かれたのです。
「どうしてこの人は恨まないのか?」「どうしてこの人は苦しみの中で叫ばないのか?」「どうしてこの人は自分を十字架につけた人たちを赦すのか?」
そんな思いを抱いたのではないでしょうか?そんな時に人々の嘲りと罵りの言葉が心に響いてきたのではないかと思います。
「神のキリスト」「選ばれた者」「ユダヤ人の王」・・・・彼ははっとして遂に悟ったのでしょう。このイエスこそキリストであり、ユダヤ人の王だったのだ、この人が今、十字架についているのは自分たちの罪のためだったのだ!そんな悟りが光のように彼の真っ暗闇の心に差し込んできたのでしょう。
彼の石よりも固い心はその時、砕かれたのです。そして神への恐れが与えられたのです。神なんか信じて何になる?神なんて何もしてくれないと神への怒りと恨みに満ちていたこの強盗は神がそんな自分のためにもメシアを送ってくださっていた、そして人生の最後の瞬間にそのメシアと出会わせてくださった・・・
この強盗は恐れに震えたことでしょう。自分のような極悪な犯罪人が救われるなどとは考えることもできなかったのですが、この強盗は最後に悔い改め、イエス様の憐れみにすがるのです。
誰にも頼ることなんてしない、神なんて関係ない、自分は好きなように、思うように生きていくだけだと凶悪な犯罪を犯しても何一つ良心も痛まなかったようなこの強盗がイエス様に御国に入られる時には自分を思い出して欲しいと願うのです。
これは自分のような者は到底救われようのない者ですが、それでもイエス様が思い出してくださるなら御国に入ることができますというイエス様こそメシアであり、御国の王であるという信仰の告白でした。
イエス様はこの強盗の最後の信仰の告白をしっかりと受け止められて、この強盗に救いを約束されるのです。
イエス様は十字架につかれてもなお一人の魂を救っていかれました。救いようのない強情で頑なで良心のかけらもないような者を救っていかれたのです。イエス様の十字架の上での祈りはこのようにすぐに聞き届けられ、一人の魂が悔い改め、救われることとなったのです。
そしてそのイエス様の祈りのゆえに今、私たちもまたその救いにあずかった者ではないでしょうか?イエス様など知らず、その十字架が自分のためであったなどど全く知らず、知ろうともしなかったのが私たちではなかったでしょうか?
そんな私たちもまた救いようもない罪人でした。しかしそんな私をそしてあなたをイエス様は憐れんで祈ってくださったゆえに救われたのではないでしょうか?
そうであるならば、私たちもまた私たちの周りにいる救いようもない強情で頑なで無知な人々のために祈り、福音を伝えるべきではないでしょうか?なぜならイエス様は今もその一人一人のためにとりなし祈り続けておられるからです。
そのように私たちが救いようのない者たちのために祈り、福音を伝え、その魂が救われるなら、イエス様の十字架の苦しみとその血が無駄になることがなくなるからです。
その時、私たちはイエス様がご自分の心を分かち合うことができるイエス様の友となるのではないでしょうか?
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
このイエス様の祈りを自分の祈りとして今日も一人の魂のために諦めることなく祈り、福音を伝えていきたいと思います。