裏切りと背信の中の時に
[マルコの福音書 14:48,49,50]
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
今日の聖書箇所
マルコ14:43〜52
今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきましょう。
イエス様はユダに裏切られ、遂に逮捕されてしまいます。そして弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げて行きました。
あまりと言えば、あまりのことではないでしょうか?イエス様はユダの裏切りを知ってからもユダにこのままでは地獄で滅びるしかなくなると最後まで警告され、悔い改めの機会を与えました。
弟子たちにも三度にわたってご自身の十字架と復活を予告されそれに備えるように警告して来られたのです。
しかしここではその全てが無駄になってしまっているのです。まさに敵である悪魔の思うように事が運んでいるのです。
その中でイエス様はなぜ?どうして?と嘆くこともつぶやくこともなく、全ては聖書が成就するためですと天の父の御心を全て受け入れて、その御心に従い、十字架の道へと歩み始めるのです。
そこにはどれほど悪魔が暴れ回り、ご自分の大切なもの全てを破壊し尽くしても、どれほど人が罪深く、弱く、ご自分の愛の全てを拒絶しても、全ては天の父の最善のご計画がなるためであるというイエス様の絶対的な信仰がありました。
最悪の状況の中でイエス様は天の父への絶対的な信頼、揺るぎない信頼を保ち続けたのです。そしてその中でご自分の使命を果たしていかれました。
その結果はどうなったのでしょうか?それが復活の勝利であり、復活の栄光でした。
私たちの信仰生活にも時に神がいるならなぜこんな事が?どうしてこんな事が?と思われることが許されることがあります。
こんなに愛したのに手ひどく裏切られることがあります。こんなに愛したのに何も報われないことがあります。報われないどころか最愛の結果になってしまうことがあるのです。
弟子たちもそうだったのではないでしょうか?それゆえ弟子たちはイエス様への信仰を失い、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
しかしそのような時にも天の父をどこまでも信頼し、天の父の御心に従い使命を果たしていかれたのがイエス様でした。私たちはどうするでしょうか?
もう無理、もう懲り懲りだと信仰を捨てて主を見捨ててしまうなら、悲劇が悲劇のままで終わってしまいます。しかしそれでも全ては聖書が実現するため、神の御言葉が実現するための神のご計画であるとその中でもそれぞれが使命を果たしていくなら復活の勝利、復活の栄光が現れていくのです、
それが絶対的な信仰であり絶対的な信頼です。
しかし弱い私たちにはとてもそんな信仰を持つことなどできません。それゆえゲッセマネの祈りが必要なのです。ゲッセマネの祈りで勝利した者だけがそのような絶対的な信仰をいただいて復活の勝利と栄光を見る者となっていくのです。
ここに一人の青年が出てきます。
[マルコの福音書 14:51,52]
ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
この青年はマルコ福音書を書いたヨハネ・マルコではないかと言われています。このように弱かったマルコでしたが、後に聖霊さまを受けてマルコ福音書を書くような主の弟子となっていくのです。イエス様の十字架がこのマルコを生み出したのです。十字架は十字架で終わりませんでした。主の弟子マルコを生み出し、そのマルコを通して今も復活のいのちが全世界の人々に注がれているのです。