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信仰と宗教
[使徒の働き 7:2,3,4,5]
するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されましたが、ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。しかし神は、まだ子がいなかった彼に対して、この地を彼とその後の子孫に所有地として与えることを約束されました。
今日の聖書箇所
使徒7:1〜15
今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。
最高法院に引き出されたステパノは最終弁明の機会が与えられます。ステパノはその機会に自分の無実の罪を弁明するのではなく,大胆にイエス・キリストの福音を伝えるのです。
ステパノは原稿もなしに,イスラエルに歴史からイエス・キリストこそメシアであることを論証していくのです。それは人間の知恵と力によることではなく,聖霊が与える知恵と力によるものでした。
ステパノはまずイスラエルの始まりとなった父祖アブラハムについて語ります。アブラハムはメソポタミヤの地にいた時に栄光の神との出会いを体験し,その約束の御言葉に従ってカナンの地へと旅立ちます。
アブラハムは目に見えない神とその約束の御言葉を信じ,それに従ったのです。そのアブラハムに神が与えられたものは目に見える相続財産は足の踏み場となる土地さえもなく,ただ約束の子孫と約束の地を与えるというものだけだったのです。
ステパノはその事を通して信仰とは何かということをユダヤの指導者たちに思い出させようとしているように思います。
当時のユダヤ人たちの信仰の中心は神殿と神殿での宗教儀式にありました。イエス様は十字架につけられた理由も神殿を汚したという神聖冒涜罪でした。そしてステパノが捕えられ,訴えられていることも神殿を汚したということなのです。
目に見える神殿とそこでも宗教儀式と伝統を何よりも重んじて,それを神聖視していたユダヤ人指導者たちに,信仰とはそのようなものではないと言っているのです。
ステパノは信仰とはアブラハムが体験したように生ける神との出会いと人格的な交わりであり,その約束の御言葉を信じることだと主張しているのです。しかし当時にユダヤ人指導者たちにはそのような生きた信仰は全く失われ,彼らは目に見える神殿と宗教儀式を盲目的に信じ込んで,自分たちは神に喜ばれていると思い込んでいたのです。
次にステパノは族長のヨセフについて語ります。ヨセフは兄たちに妬まれて非情にもエジプトに売られてしまうのですが,神はそのエジプトでヨセフを指導者にまで引き上げ,そのヨセフを通して飢饉の中にいた一族は救われていくのです。
[使徒の働き 7:9,10,11,12]
族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと王の全家を治める高官に任じました。すると、エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、大きな苦難が襲って来たので、私たちの父祖たちは食べ物を手に入れることができなくなりました。しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まず私たちの父祖たちを遣わしました。
このヨセフこそメシアであるイエス様を示す型,予型だということです。ヨセフと同じように指導者たちに妬まれて,非情にも十字架につけられてしまうのですが,そのイエス様こそ彼らの救い主であるということです。
これらのイスラエルの歴史を通してステパノは人はいかに神殿や宗教儀式という目に見えるものに惑わされて信仰の本質,神との交わりを失ってしまうものであるか,また先入観や偏見によって神の人を迫害し,神のご計画を理解できないかということを指摘しているのです。
私たちもまたそのような弱さを持つ者であることを十分に自覚したいと思います。神様,イエス様と言いながらその御方との出会いや人格的な交わりではなく,目に見えるものを信じてしまい,また宗教儀式と決まりきった伝統の中に安住してしまいやすいものでしょう。生きた信仰はあっという間に死んだ宗教になってしまう危険性がいつもあるのです。
またどれほど偏見や先入観にとって神のご計画を理解することなく,神に敵対する者となっていることでしょう。そうならないためには私たちもまたステパノのように絶えず祈って聖霊に満たされるしかないのではないでしょうか?
今日の祈り
主よ,あなたの御心を悟れない者を憐れんでください。あなたとの出会いと人格的な交わりの中にとどまり,聖霊さまによって偏見や先入観から解放してください。