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ゲッセマネの祈り

[ルカの福音書 22:40,41,42,43,44]

いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

今日の聖書箇所
ルカ22:39〜53

今日は受難週3日目、ルカによる福音書から恵みをいただいていきたいと思います。

有名なゲッセマネの祈りの場面です。

イエス様にとっても十字架は最大の試練の時でした。イエス様が神としての御力を使うならば十字架にかなる必要などなかったからです。

イエス様にとって十字架は全ての人の罪を負い、それゆえに父なる神と断絶し見捨てられることを受け入れることだったのです。永遠のはじめから天の父と一体で荒れたイエス様にとってそれは想像を絶する苦痛でした。文字通り、私たち全ての人のために地獄の刑罰を受けることだったのです。

サタンは激しく十字架を拒否するようにとイエス様を誘惑したのです。そしてイエス様にはそれは簡単にできることだったのです。しかしもしそうしてしまうなら人間の救いの道は閉ざされてしまうのです。

それゆえイエス様は祈りに祈ってそのサタンの誘惑に打ち勝って十字架につくことを自ら決断されたのです。それによって神の救いのご計画が完全に実現することとなったのです。

しかしこの時、弟子たちは最も祈りが必要な時に祈りませんでした。その結果、サタンの誘惑に負けて十字架に向かうイエス様を見捨てて離れ去ってしまうことになったのです。

祈るべき時に祈るか、祈らないか、それは私たちの人生に決定的な影響を与えることになるのです。

イエス様は一世一代の最大の試練を祈って勝利されたのですが、その祈りはどのようなものだったのでしょうか?

第一にイエス様は継続して祈られました。

[ルカの福音書 22:39]

それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。

イエス様はいつものように、いつもの場所で祈られたのです。試練になってから祈ったのではありません。いつも継続的に祈っておられたので、最大の試練の時にも祈ることができたのです。

いつも祈っていない人が試練になったら祈れるなどと言うことはないのです。いつも祈っていないならば試練の時にはますます祈れなくなってしまうでしょう。

第二にイエス様は率直に祈られました。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

十字架という苦い杯を取り去ってくださいとご自分の気持ちと願いを率直に祈られました。

祈りは親と子の対話であり、交わりです。それゆえ私たちは正直であることが必要です。自分の気持ちと願いをそのまま隠すことなく祈ることを通して天の父との交わりが生まれるのです。

言葉がどんなに立派でも自分の気持ち、感情、願いを隠しているなら、それは祈りではなくなるのです。祈りにおいて最も大切なことは正直であることです。

第三のイエス様は父の御心を求めました。

ご自分の願いを率直に正直に祈ると共に、父の御心を知ることを求め、それを受け入れて行かれたのです。

祈りが対話である以上、自分の願いだけ祈って終わりということはあり得ません。祈りの中で天の父の御心を知ることを求め、それを受け入れていくことが祈りです。

それは一度でできることではないのです。イエス様でさえ3度も祈らなければ父の御心を受け取ることはできなかったのです。

第四にイエス様は切に祈られました。

汗が血のしずくになるまで切に祈られたのです。それは苦闘、死闘の祈りでした。イエス様も弟子たちと同じように疲れ果てておられたのです。しかしそれでも最後の力を振り絞って祈られたのです。

そのようにして凄絶な十字架を受け取っていかれたのです。誰のためでしょうか?私のためでありあなたのためです。何のためでしょうか?私をそしてあなたを罪から死から呪いからそして地獄から救い出すためです。そのためにはイエス様が十字架にかかるしか道がなかったのでイエス様はここまで祈ってそれを受け取ってくださったのです。

それを思う時に涙しかないのではないでしょうか?感謝しかないのではないでしょうか?私が代わりに死ぬからあなたは生きなさいと十字架を選んで下さったのです。それを思う時に、私たちの生涯を捧げてこのお方に感謝を捧げてお仕えしていくしかないのではないでしょうか?

弟子たちは最大の試練の時に眠り込んでしまい、それゆえに剣を振り回し、イエス様を捕らえに来た人の耳を切り落とし、余計なことしかできず、最後は主を見捨てて逃げてしまったのです。

祈るべき時に祈らなかったことの刈り取りはとても苦いものとなってしまいました。試練から脱出する道は祈るべき時に祈ることしかなかったのです。

私たちもまた普段から祈り、率直に祈り、御心を示されることで交わりを深め、戦いと試練の時には力を振り絞ってでも祈らなければなりません。そのように祈る者だけがそれぞれの十字架を負って主の御跡に従っていくことができる者となるからです。

そのように祈る者だけが余計なことをしないで主の方法で主のご計画を成し遂げていくことができるようになるからです。

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