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外なる人と内なる人

[サムエル記 第一 19:23,24]

サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。

今日の聖書箇所
Iサム19:18〜24

今日もサムエル記から恵みをいただいていきたいと思います。

サウルのダビデに対する本格的な迫害が始まります。サウルはもうなりふり構わずダビデを殺しにかかってきます。

そんな中でダビデはラマにいるサムエルのところに逃げ込みます。サムエルは偉大な預言者でしたが,既に高齢であり,指導者を引退した身です。権力者であるサウルに対してはこの世的には全く無力です。

しかしダビデが王になるようにと油を注いだサムエルはダビデを守るために自分の身を顧みずにダビデを守ります。

サウルはダビデを捕らえるために使者たちを遣わしますが,使者たちはサムエルの下にいた預言者たちが預言をしているのを見ると,自分たちまで預言をし始め,恍惚状態となって,動けなくなってしまのです。

そんな事が三度もあり,遂にサウル自身が直接ラマのナヨテまで出向き,ダビデを捕らえようとします。そして何とサウルにも神の霊が臨み,サウルもまた恍惚状態となって預言するようになります。

その時,サウルは何と自分の名誉の象徴である王服も脱いで裸になってしまうのです。王として決してしてはいけないような恥を人々の前にさらしてしまうことになるのです。

サウルはここまでダビデを殺したいと思ったのは自分の王位を守るためでしたが,神の霊に撃たれるとその最も大切にしていた王位の象徴である王服も取り去られてしまうのです。とても象徴的な出来事です。

この出来事は何を意味しているのでしょうか?私には神の霊,聖霊さまは私たちの本当の姿を明らかにされるお方であることを教えているように思えるのです。

人はいろいろなもので自分の外側を飾ります。お金,名誉,権力などで自分を飾り立て,あたかもそれが本当の自分であるかのように思い込んでしまいます。またそれらが永遠に続くかのように錯覚します。

しかしそれらの外側の飾りはみなやがて取り去られていきます。そしてその人自身の本当の姿が明らかになる時が来るのです。神の御前に立つ時,神の霊が臨む時,それが明らかになってしまうのです。

サウルは自分は王であるとおごり高ぶり,自分は何でもできる価値ある人間であるかのように思っていましたが,神の霊に撃たれると,裸の哀れで惨めな者でしかなかったことが明らかにされてしまったのです。裸で哀れに倒れている姿,それこそサウルの霊の姿ではなかったかと思います。

私たちにとって大切なのは外側の王服ではありません。私たちにとって大切なのは内なる人なのです。私たちの内なる人はどのような状態でしょうか?それは神の霊,聖霊さまの光,御言葉の光に照らされる時に明らかになるのです。

私たちの内なる人が裸の恥をさらすようなことがないように次の御言葉を心に刻んでいきたいと思います。

[ヨハネの黙示録 16:15]

──見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである──

[コリント人への手紙 第二 5:1,2,3]

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。

私たちの内なる人が恥ずかしい裸とならないように,日々罪を悔い改め,イエス様の義の血潮,義の衣で覆っていただく者となりたいと思います。

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