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神を信じるとは神の裁きを信じることです

[列王記 第二 9:6,7,8,9,10]

エフーは立って、家に入った。そこで若者は油をエフーの頭に注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする。それでアハブの家はことごとく滅び失せる。わたしは、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまでを絶ち滅ぼし、アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バアシャの家のようにする。犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない。』」こう言って、彼は戸を開けて逃げた。

今日の聖書箇所
II列王9:1〜13

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリシャは預言者の一人をニムシの子エフーに油を注いで新しい王とするために遣わします。そしてエフーにアハブ王朝を滅ぼし尽くし、主の裁きを成し遂げるという使命を与えるのです。

アハブと王妃イゼベルは北イスラエルを偶像崇拝で汚しただけではなく、数多くの預言者と主のしもべたちを虐殺していきました。そしてエリヤによって数々の奇跡が行われ、主なる神こそ真の神であることが明らかにされていきましたが、それでも悔い改めることはありませんでした。

エフーを新しい王としてアハブ王朝を裁くことは既にエリヤの時代に語られていたことでした。

[列王記 第一 19:16]

また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

しかしエリヤの時代にはその裁きが下されなかったのです。主はなおアハブとその一族の悔い改めを待って裁きを延期されたのですが、しかし遂に神の時が来て神の裁きと義が現されることとなったのです。

アハブとイゼベルの暴虐に対して神の裁きが下されない間、人々はそれを理解することはできなかったことと思います。イスラエルの神、主なる神を信じていた人たちも神が悪に対して何もなさらないように感じて、神に躓いてしまっていたのではないかと思います。ある人は結局、神などいないのだと信仰を捨ててしまったかもしれません。

しかし時が満ちた時に神は約束された通りにアハブ一族に義なる裁きを下され、その御言葉は実現されたのです。

神が裁きを下すまでの間、アハブもイゼベルもその一族も繁栄を謳歌し、富も権力も名誉もほしいままにしたのです。それはあたかもアハブもイゼベルも豊かに祝福されているかに見えたことでしょう。その裏でアハブとイゼベルに苦しめられた人たちはどれほど悔しい思いをしたことでしょう。こんな不条理でおかしなことがあるか?と悩み苦しんだのではないでしょうか?

しかし遂に神の忍耐の時は終わり、裁きの時が始まったのです。その時になって後悔してももう何の意味もありません。

私たちも目の前の現実だけを見ているなら神に躓いてしまうことが多くあります。なぜこんな悪がいつまでも許されているのか?なぜこんな悪しき者が栄え、義なる者が苦しむのか?この世の中にはそんな不条理が満ちているからです。

目の前の現実だけを見ているなら信仰を保つことなどできなくなるのです。それゆえ私たちは御音葉を聞いて、御言葉を信じる必要があるのです。なぜなら神の御言葉は時が来るなら必ず実現していくからです。しかし目の前の現実は絶えず変わり、確かなものなど一つもないからです。

神の裁きが下されないように見える時、実はそれは恵みの時なのです。主は人々が悔い改めるのを待っておられるからです。そして悔い改めるならどんな罪人も裁きから救われていくからです。

[ペテロの手紙 第二 3:8,9]

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

神の裁きの時が来た時にはどうなるのでしょうか?悪しき者たちは神の裁きを震えながら待つしかなくなるのです。その時になるともう悔い改めることはできなくなるのです。

[ヨハネの黙示録 6:16,17]

そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

愛の神は御怒りの日を定めておられ、恵みの主イエスが裁きの王座に着かれる時が来るからです。その時、全ての人々は行いに応じて裁かれることになるのです。

[ヨハネの黙示録 20:12,13]

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

神は愛であるゆえに前もって裁きの日が来ることを私たちに警告してくださっているのです。その裁きの時に後悔しないように恵みの時に霊的なチャンスを逃さず神に喜ばれることを行い、霊的な富を蓄え、霊的に豊かな者となるためです。

それゆえ神は愛だから、救いは恵みだからと肉のほしいままに自分勝手に生きるのではなく御霊の助けによって神の御言葉の一つ一つに従う者となっていきたいと思います。神を侮ることなく、神を畏れる心で主に忠誠を尽くす者となりたいと思います。失望せずに善を行うならやがて必ずその報いを受け取る日が来るからです。そして神を侮り肉に従い続けるなら、同じようにその報いを受けることになってしまうからです。

[ガラテヤ人への手紙 6:7,8,9]

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

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