![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140919575/rectangle_large_type_2_104e5f6e461bec6afff513d621fa303b.jpeg?width=1200)
信念から信仰へ、思い込みから確信へ
[列王記 第一 18:14,15]
今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」
今日の聖書箇所
I列王18:1〜15
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
預言者エリヤはシドンのツァレファテのやもめのところで3年間、養われていましたが主はそこからイスラエルに戻り、アハブ王に会いに行くようにと命じます。
[列王記 第一 18:1,2]
かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。
アハブはエリヤを探して殺すためにあらゆる国々に人々を遣わしていました。しかし主はそのような中でもエリヤを完全に守ったのです。
そしてエリヤは主の言葉に従って再びエリヤをアハブのところに遣わします。人間的に考えるならすぐに殺されることになるのでとても恐れるはずです。しかしエリヤは恐れることなく大胆にアハブの前に出て行くのです。
エリヤには神の御言葉に対する絶対的な信頼がありました。最悪の独裁者であるアハブもイゼベルも神の御言葉に反して何もできないという信仰があったのです。
エリヤがアハブに会いに行く途中で会ったのが宮廷長官のオバデヤでした。オバデヤはアハブの最も近くにいながら主を恐れる信仰を持っていました。それゆえイゼベルが主の預言者たちを殺した時には、預言者たちをかくまい、養うことまでしたのです。
[列王記 第一 18:3,4]
アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。
最悪の王、アハブの最も身近なところにこのように主を恐れるオバデヤがいたことは驚きです。そして主はまずこのオバデヤにエリヤを会わせるのです。それを通して主はご自身の御業をアハブとイゼベル、そして偶像崇拝にすっかり染まってしまっている北イスラエルの民に現していかれるためです。
このように主のご計画、主の御業は人々の出会いを通して進められて行くことが分かります。オバデヤはイゼベルによる迫害を悲しみ、主が悪を正しく裁いてくださるように祈っていたのではないでしょうか?その祈りの答えとしてエリヤとの出会いを与え、エリヤを通して主の義と裁きが現されようとしているのです。
しかしオバデヤはエリヤを通して語られた主の言葉を聞いた時にとても恐れました。主がエリヤを隠されて、自分が嘘をついたとしてアハブに殺されるかもしれないと思ったからです。
[列王記 第一 18:8,9,10,11,12]
エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。
オバデヤは確かに主なる神を信じ、恐れる者だったのですが、その御言葉を信頼するよりはやはり目の前の現実の状況、環境を信頼していたことが分かります。主なる神を熱心に信じていたとしても、その御言葉を信じる信仰がなければ人は目の前の状況、環境によってやはり揺れ動き、恐れてしまうのです。
オバデヤはエリヤを通して主の御言葉は必ず成就することを学び、その信仰を成長させていく必要がありました。
ここに3人の人物が登場します。一人はアハブで神の言葉を完全に否定し、神の言葉に挑戦していきます。その結果は干ばつと飢饉でした。そのような苦しみを味わってもなおアハブは全く悔い改めようとはしません。そのようなアハブは呪われ、確実に死に向かっています。
二人目はオバデヤです。オバデヤは主なる神を確かに信じ、恐れていました。しかしまだその御言葉をそのまま信じるところまでは行っていませんでした。それゆえ神の言葉を聞いた時、神の言葉より現実の状況、環境、自分の考えと予想を信じてしまい、恐れ、揺れ動いてしまったのです。
三人目はエリヤです。エリヤは全て神の御言葉通りに歩んでいました。主が言われたところに行き、主が言われるまでそこを動かず、主が言われるなら自分を殺そうとしているアハブの前にも出て行きます。そのエリヤには恐れはありませんでした。そしてそこには御言葉が全てそのまま成就していく力ある御業が現されていくことになったのです。
信仰とはただ神の存在を信じるとか、神は愛であると信じるとか、そのようなことではないのです。それは多くの場合、自分の思い込みや願望を信じる自分なりの信念で終わってしまいます。それは現実の状況、環境によってすぐに変わってしまい、恐れや疑いの中で揺れ動いてしまうことになります。
しかし私たちが神の言葉を聞き、神の言葉をその通りに信じるなら、恐れは消え、確信と平安が与えられ、やがて全て御言葉通りに実現していくのを見ることになるのです。
真の信仰は神の言葉を聞くことから与えられていくのです。
[ローマ人への手紙 10:17]
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。