見出し画像

愛する価値のない者を愛する愛

[ホセア書 3:1,2,3]

主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」

今日の聖書箇所
ホセア3:1〜5

今日もホセア書から恵みをいただいていきたいと思います。

ホセア書3章は旧約聖書の中で神の愛が最も明確に教えられている箇所の一つです。

主なる神は夫ホセアのもとにありながら、ホセアを裏切り、他の男と姦淫の罪を犯して身を持ち崩してしまった妻ゴメルを引き取り、愛するように語ります。

それは主なる神に愛されていながら主なる神を裏切り、他の偶像の神々を礼拝して霊的な姦淫を繰り返すイスラエルの民を主なる神がなお愛し続けておられたからです。

ホセアはその神の命令に従い、姦淫の女ゴメルのもとに行き。犠牲を払ってゴメルを買い取るのです。

ゴメルは姦淫の罪のゆえに奴隷や遊女にまで身を持ち崩してしまっていたと思われますが、ホセアは大きな犠牲を払ってそのゴメルを買い取るのです。これを贖いと言います。

ゴメルがそこまで身を持ち崩してしまったのは身から出たさびであり、蒔いたものを刈り取っただけでした。誰一人ゴメルに同情してくれる人もいなかったでしょう。しかし主なる神はそのようなゴメルを愛し、憐れむようにとホセアに命じるのです。それが神の愛だからです。

神の愛とはどのようなものなのでしょうか?

第一にそれは訪れてくださる愛です。

ゴメルは罪のゆえにもう夫ホセアのもとに戻ることはできません。そのようなゴメルを探し出し、訪ねていくのです。神の愛はこのように罪人を探し出し、訪ねてくださる愛なのです。

私たちもまた罪のゆえに失われていた者たちであり、罪のゆえにもう自分からは神のもとに立ち帰ることもできない者たちでした。罪の奴隷、悪魔の奴隷となっていて自分からはもうそこから離れることができない者たちだったのです。

そのような私たち一人一人のもとに主が訪ねてきてくださり、そこから救い出してくださったゆえに私たちは救われて主のもとに立ち帰ることができたのです。

私たちは決して自分から神を求めたわけでもなく、自分で神を信じたわけでもなく、ましてや自分から神に従うようになったわけでもないのです。それら全てはただ私たちの人生に訪れてくださった神の恵みによることだったのです。

私たちは決して自分の力で救いを勝ち取ったかのように勘違いしてはいけないのです。全てはただ一方的な神の愛と憐れみによるものであることを忘れてはなりません。

第二にそれは価値なき者のために犠牲を払う愛です。

ホセアは奴隷となっていたゴメルを買い取るために代価を払います。犠牲を払って罪にゆえに奴隷となっていたゴメルを買い戻すのです。これを贖いと言います。

ゴメルは全く愛される資格も価値もない者でした。姦淫の女であったのにそのような自分をホセアが妻としてくれたのですが、それにも関わらずホセアを裏切り再び姦淫の罪を犯し、ホセアのもとから出て行って、奴隷になってしまったからです。

まさに自業自得でした。しかしそのようなゴメルのためにホセアは代価を払い、犠牲を払って自分のもとに取り戻して再び妻としての身分と立場を与えるのです。

私たちもまた創造主なる神によって創造され、全てを与えられ愛されていた者たちでしたが、悪魔に騙されて創造主のもとから離れて罪の奴隷、悪魔の奴隷にまで身を持ち崩してしまった者たちでした。

また全てを創造主から与えていただいているのに偶像の偽りの神々を礼拝し、罪に罪を重ねていた者たちでした。私たちもまた神に愛される資格も価値も全くない者たちだったのです。愛されるどころかその罪のゆえに刑罰を受け、地獄で滅ぼされて当然の者だったのです。

しかし神はそのような罪と悪魔の奴隷となってしまった私たちを贖うため罪なきひとり子イエス・キリストをこの地に遣わし、一点の罪もないご自身の十字架の血という代価を払って私たちを罪と悪魔の奴隷から贖い、買い戻し、再びご自分の子どもとしての身分と資格を与えてくださったのです。

主イエス・キリストは創造主に反逆したその罪のゆえに永遠に地獄で滅びるしかなくなった私たちのために「私が死んでもあなたは生きるべきだ」と自分から進んで十字架を背負い、刺し通され、砕かれ、呪われた者となって血を流して私たちを贖罪から死から呪いから贖ってくださったのです。

なぜそんなことまでしてくださったのでしょうか?ただ私たちを愛してくださったからでした。その愛はまさに理由のない愛であり、全く愛する価値のない者を愛する愛、無条件の愛、犠牲を払う愛、アガペーの愛でした。

私たちはあなたは神に愛されていますとか、あなたは高価で尊いとか言うことがよくあるのですが、私たちの罪、人間の罪ということを明らかにしないならば神の愛を誰も理解することなどできないのです。

あなたは愛されていますと言っても自分の罪が分からないなら「それじゃどうして自分はこんなに不幸なんだ?」とか「それじゃどうして神を信じているのに自分にはこんな苦しみがあるのか?」というご利益信仰か、「ナンバーワンにならなくてもいい、オンリーワンでいい」といったヒューマニズムでしか神の愛を判断しないのです。

神の愛、十字架の愛、贖いの愛、アガペーの愛は罪を知り、罪を悟った者だけが理解することができるのです。それゆえ神の愛を知らせるためには罪を明らかにすることが必要なのです。

第三にそれは聖める愛です。

[ホセア書 3:3,4,5]

彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」これは、イスラエルの子らが、これから長く、王もなく、首長もなく、いけにえも石の柱もないところに、エポデもテラフィムもないところにとどまるからだ。その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である主と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。そして終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく。

ゴメルの姦淫の罪の傾向は簡単には取り除かれるものではありませんでした。自然にしているなら再び他の男のもとに行ってしまうでしょう。ゴメルはホセアのもとにとどまる訓練が必要でした。それは簡単なことではなく厳しく、辛く、長く続く訓練だったと思います。

同じようにイスラエルの偶像崇拝も身に染み付いていたゆえにそれが取り除かれるためには長く、厳しい懲らしめと訓練が必要になったのです。イスラエルはこれからアッシリアに捕囚されてしまうのですが、そのような懲らしめと痛みの中で整えられ、聖められ、訓練されていくことになるということです。

神は私たちをもまた主イエス・キリストの花嫁としてふさわしく訓練され、聖められ、整えられていくのです。私たちに染み付いている罪の傾向もまた簡単には変えられることはありません。そのためには長く続く訓練があるのです。その過程には痛みと苦しみもあるのです。それを通して主とその御言葉にとどまることを訓練され、私たちはキリストの花嫁として整えられていくのです。

いいなと思ったら応援しよう!