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何を報いに生きるのか?

[ネヘミヤ記 7:5]

私の神は私の心に示して、私に有力者たちや、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載させた。私は最初に上って来た人々の系図を発見し、その中に次のように書かれているのを見つけた。

今日の聖書箇所
ネヘミヤ7:5〜60

今日もネヘミヤ記から恵みをいただいていきたいと思います。

城壁工事が主の恵みによって完成した後にネヘミヤは神からの感動を受けて帰還したユダヤ人たちの系図と名簿を発見してそれを記録します。

何の意味もないように見える名前と人数の列挙が続きます。なぜネヘミヤはこのような系図と名簿を記録したのでしょうか?

第一にそれは今まで注がれた神の恵み、また先人たちの愛と労苦を覚えて感謝するためだったと思われます。

ここに記されているのはバビロンから最初に帰還した人々でした。最初にユダヤ人たちがバビロンから帰還して90年以上の年月が経っていました。帰還した民はバビロンでの安定した生活を捨て、荒廃したユダの地に戻ってきたのです。

神殿の再建、そしてようやく城壁の再建にまでこぎつけたのですが、その歩みは苦難と戦いに満ちたものでした。経済的な苦難、敵の激しい妨害など多くの苦難を乗り越えて遂に神殿と城壁が再建されたのです。

それはただ神の恵みと守りがなければ不可能なことだったのです。ネヘミヤは神殿と城壁があることは当たり前ではなくそれがどれほど大きな神の恵みによるかを忘れないようにしたのでしょう。

またそのための先人たちの労苦と献身をも忘れないために系図と名簿をわざわざ記載したのではないかと思います。

人は忘れる存在なのです。それゆえいつも意識して神の恵みを忘れないようにしなければならないのです。何よりも私たちは主イエス・キリストの十字架の血と復活による贖いの恵みを忘れないようにしなければなりません。

そのために毎週の主の日の礼拝があり、定期的に聖餐式があるのです。十字架の血による贖いの恵みに感謝している者は必ずどんな時も礼拝を捧げ、感謝を捧げる者となるのです。イエスを信じても何も良いことはないとか礼拝が面倒くさいとかそのように思ってしまうならそれは非常に危険な状態なのです。

そのような思いに支配されそうになっているなら初めの愛を失っているのであり、熱心に悔い改める必要があるのです。恵みが当たり前になることほど恐ろしいことはないのです。

そしてまた私たちは神の御言葉に従って労苦と犠牲を払ってくれた先人たちのことも忘れてはいけません。私たちがイエス・キリストを信じて救われたのは誰かが福音を伝えてくれたからであり、また私たちが霊的に成長することができたのは誰かがそのために祈り、労苦してくれたからなのです。

そのような信仰の指導者、先人たちのゆえに神に感謝し、それらの人々に対する愛と尊敬を忘れないようにしたいものです。

第二に十字架を負って神に従った者たちを神は決して忘れることなく報いてくださることを教えるためだったと思われます。

最初の帰還民がバビロンからユダの地に戻ることは大きな献身と犠牲がなければできることではありませんでした。バビロンに捕囚されたユダヤ人たちはようやくバビロンでの生活基盤を整え、安定した生活を確立しようとしていた時でした。

彼らにとって故郷ユダの地に帰ることには何一つ現実的なメリットはありませんでした。それはようやく築き上げたものを全て捨てて、また一から、いや大きなマイナスからスタートすることだったのです。

それゆえユダの地への帰還が許されても帰還したユダヤ人たちは少数だったのです。ほとんどの人たちはバビロンに残ったのです。なぜそこまでして帰還したのでしょうか?それはただ神への愛と信仰によるものでした。

どうしても神の神殿と神の都を再建したいという神への愛と自分たちは約束の地で真の神を礼拝し仕えるために選ばれた民であるという使命感によるものだったのです。

ネヘミヤがここでこのように系図と名簿を記録したのはそのように神を愛し、十字架を負って使命を果たす者たちの献身と労苦は何一つ忘れられることなく全て記録されており、それには必ず報いがあることを示すためだったのでしょう。

バビロンから帰還した人たちの信仰はこの世のものを求めるご利益信仰ではなく天での報いと冠を求める真の信仰であったのです。

私たちは何を目的に信仰生活をしているでしょうか?この世での目に見えるご利益でしょうか?それとも天での報いと冠でしょうか?

この地上での信仰生活は楽で簡単なものではありません。ネヘミヤ記を読んでも分かるように神からの使命を果たしていくということは戦いの連続です。それでもなぜイエス・キリストを信じて、信仰生活をするのでしょうか?

それはこの地上で何を得てもそれらは一時的でありやがて消え去ってしまうからです。しかし天の宝、天での報いと冠は朽ちることのない永遠のものなのです。霊の目が開かれてそれが見えるようになった者だけが永遠に失われない天での報いと冠を求めて狭い門から入り、狭い道を歩み、自分の十字架を負って主の使命を果たし、天国への旅路を歩み続けるようになるのです。

それゆえヘブル書ではこう言われています。

[へブル人への手紙 11:24,25,26]

信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。

ご利益で人を釣って自分の奴隷にしていく偽教師、偽預言者たちが多くいるのです。私たちは惑わされることなく決して失われない天での報いから目を離すことなく、悩みと問題の多いこの地上の人生を祈りつつ、歌いつつ歩んでいきたいと思います。

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