変化を起こす人
[列王記 第二 18:1,2,3,4,5]
イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。
今日の聖書箇所
II列王18:1〜12
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
北イスラエルが滅亡しようとしていた時、南ユダもまた偶像崇拝による衰退と滅亡の危機の中にありました。特にアハズ王はそれまで南ユダにかろうじて残っていた信仰をも根こそぎ破壊し、徹底的な偶像崇拝によって南ユダ全土を汚してしまいました。
また高き所での偶像崇拝も何代にもわたって続けられ、すっかり定着してしまい誰にもどうすることもできないような状況だったのです。そんな暗い時代にヒゼキヤが登場するのです。
しかしヒゼキヤはそのように状況、環境が最悪と思われる中にあっても勇気を持って立ち上がり、信仰によって宗教改革を成し遂げて、南ユダに劇的な変化を起こしていくのです。
ヒゼキヤは何代にもわたって続いてきた高き所での偶像崇拝を取り除くことに着手するのです。それが南ユダ衰退の最大の元凶だったのですが、それまでの王は誰もそれに取り組むことはありませんでした。
もうそれは仕方がない、どうしようもない、受け入れるしかないと思っていたからでしょう。しかしヒゼキヤはそうは考えずそれは取り除かなければならないし、取り除けると考えたのです。
なぜそのように考えることができたのでしょうか?ヒゼキヤは神の御言葉に立つことに決めたのではないかと思います。神の律法にそのようにあるなら、そうしなければならないし、そうできるはずだと考えたのではないかと思います。
そしてそのように御言葉に対する信仰に立って勇気を持ってそれに取り組んでいった時に不可能だと思っていた高き所での偶像崇拝を取り除き、またその他もろもろの偶像崇拝をも取り除くことができたのです。
そしてそのようなヒゼキヤの信仰による宗教改革は主なる神の祝福をもたらし、ヒゼキヤも南ユダも繁栄していくこととなるのです。
[列王記 第二 18:6,7,8]
彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。
主は彼とともにおられた。彼はどこへ出て行っても成功を収めた。彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えなかった。彼はペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。
衰退と縮小を続けていた南ユダは本当に久しぶりに敵に打ち勝ち、領土を拡大することまでできたのです。
私たちはこのヒゼキヤから何を学ぶことができるでしょうか?
第一に主は一人の人を用いられるということです。ヒゼキヤ以外の誰も高き所を取り除こうなどと考えることもなかったのです。そんな事は不可能だ、できないと思っていたからです。しかしヒゼキヤはただ一人信仰に立ってそれに取り組んだのです。その時、変化が起こされていったのです。
私たちもまたその変化を起こす人になることができるということです。あの人がこの人が変わってくれたら、状況が環境がこうなったらと思ってしまいやすいのですが本当の問題は私にあるということです。私が変わるならそこから全てが変わり始めるのです。しかし私が変わろうとしないであの人が、この人が、この状況が、あの環境がと言っている限り変化は起こらないということです。
第二に主は信仰に立つ人を用いられるということです。信仰に立つとは神は全能だから何でもできると考えることではありません。それだけなら信仰は積極思考や可能性思考と変わらないことになってしまいます。信仰とは神の言葉に立つことであり、神の約束の言葉を信頼することです。神が語られ、神が約束してくださっているならそれはできると信じて挑戦することです。
主なる神はモーセに偶像を全て取り除くように命じていました。ヒゼキヤはその御言葉に従って行動したのです。
[出エジプト記 34:12,13]
あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。
私たちは聖書にはそうあってもこうだから、ああだからそれは無理、それはできないという考えになってしまうことが多いのではないでしょうか?しかし神の言葉にそうあるならそれはできる、私にはできなくても主の力と助けによってそれはできると考え、それに挑戦していくことが信仰に立つということなのです。そのような人を通して無から有を生み出す主の力ある御業が現されていくことになるのです。
主は私にも、あなたにもこの時代のヒゼキヤとなって変化を起こしてほしいと願っておられるのではないでしょうか?