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祈りの目的はご利益ではありません

[列王記 第二 19:16,17,18,19]

主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」

今日の聖書箇所
II列王19:14〜28

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ヒゼキヤはアッシリアの大軍の攻められ、信仰も揺らぎ莫大な賠償金を払って問題を解決しようとしました。しかしそれによっては何も問題は解決せず、アッシリアの王は執拗に完全降伏を迫ってきました。

アッシリアの王の側近ラブ・シャケはヒゼキヤと民の信仰を嘲り、信仰を捨てさせようと恐れや不信感を吹き込んで、揺り動かしてきたのです。

そしてアッシリアの王は最終的には神にだまされてはならない、神に信頼してもそんなことは全く無力であると脅してきたのです。

[列王記 第二 19:10,11,12,13]

「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが。おまえは、アッシリアの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを確かに聞いている。それでも、おまえだけは救い出されるというのか。私の先祖は、ゴザン、ハラン、レツェフ、またテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか。ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこにいるか。』」

現実を見よということです。神々も信仰も祈りもアッシリアの圧倒的な力の前では何一つとして役に立たないのだから、自分の無力を認めて降伏せよ、現実を受け入れよと迫ってきたのです。

これが信仰者を揺り動かすこの世の方法であり、悪魔のやり口なのです。目に見える現実、目に見える力が全てだと惑わしてくるのです。アッシリアの王は「おまえの神にだまされてはいけない」と言っていますが実際はアッシリアの王、サタンがヒゼキヤをだまし、主なる神からの救いを受け取らせないようにしようとしているのです。

このようなアッシリアの王の執拗で巧妙な攻撃の中でヒゼキヤは追い詰められ、ようやく自ら切に祈り始めるのです。その祈りはまさに産みの苦しみのような祈りでした。ヒゼキヤは祈りで勝負するしかないことを悟り、答えられるまで祈る祈りに入っていくのです。

ヒゼキヤはまず絶対絶命の危機の中でもイスラエルの神、主なる神がどのようなお方かを宣言し、賛美と信仰告白の祈りをします。

イスラエルの神こそ天地の創造主であり、国々の主権者であり、偶像の神々とは違い呼び求める者に答えてくださる生ける神であることを賛美し、宣言していくのです。

祈りとはこのようにまず神ご自身がどのようなお方かを思い出し、賛美するところから始まります。そのような賛美と礼拝、信仰の告白の祈りが天の扉を開き、神の恵みと力が流れてくる霊的な通路を開くからです。

危機と問題の中で祈る時、私たちが現実だけを見ているなら信仰が与えられることはありません。それゆえまず神がどのようなお方か、何をなすことができるお方なのを思い出し、それについて賛美し、信仰によって宣言するのです。そのような信仰の祈りが天に届く力ある祈りとなっていくのです。

次にヒゼキヤは危機からの脱出、問題の解決を祈りますが、それはただ自分たちの救いを祈り求めたのではなく、それを通して神の栄光が現され、国々の人々が主なる神こそ真の神であることを知ることができるようにと祈ったのです。

ヒゼキヤの祈りの中心目的は自分たちが救われ、祝福されることだけではなく神の栄光が現され、国々の人々が真の神を知ることができるようにという神の栄光と宣教、神の国の拡大にあったのです。

ヒゼキヤの祈りが答えられた理由はここにあるのです。ヒゼキヤの祈りと神の願いがピッタリと一致していたからです。

祈りの目的は私たちの問題解決という自己中心的なものではないということです。祈りの目的がそれだけであればイエス様に祈るのも、他の偶像の神々に祈ることも何も変わらないことになってしまうからです。

私たちの問題が解決することを通して主なる神の栄光が現され、主が賛美されるようになり、人々が主を知るようになること、神の栄光と神の国の拡大、それが祈りの目的なのです。それが神の御心だからです。

私たちがそのように神の栄光と御国の拡大を願う心を持って祈る時、その祈りはまさに的をついた的確な祈りとなり、必ず答えられていくことになるのです。

信仰者は祈りにおいても成長していかなければなりません。いつまでも肉的で自己中心的なご利益信仰のような祈りにとどまるのではなく、聖霊様の助けをいただいて神の御心を感動させるような祈りを捧げることができるようになっていきたいものです。

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