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最高の祝福
[サムエル記 第一 6:2,3]
ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」
今日の聖書箇所
Iサム6:1〜12
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。
イスラエルとの戦争に勝利し,神の箱を奪ったペリシテ人たちでしたが,神の箱がペリシテ人の地の留まっていた7ヶ月間,ペリシテ人の地には大きな腫物の災いが下りました。
主のご臨在を象徴する神の箱が留まることを通してペリシテ人の偶像崇拝の罪と悪に対する主の懲らしめと裁きが下されたのです。
遂に耐えきれなくなった彼らは神の箱をイスラエルの地に戻すことにします。どのように戻すべきかを彼らの祭司と占い師に相談するとイスラエルの神に対する罪の償いとして金のネズミを作り,それと共に神の箱を送り返すことにしたのです。
腫物の災害がネズミにより疫病だったのでしょう。また彼らは子牛を産んだばかりの雌牛2頭を子牛から離してそれに神の箱を乗せて運ばせます。子牛を産んだ雌牛は子牛から離れることはないのですが,それにも関わらず雌牛が神の箱を運ぶなら,それは神の御手によることだというしるしとなるからです。
そして2頭の雌牛は神の箱を乗せて真っ直ぐにベテ・シェメシュの町へと向かい,それによってペリシテ人の地に対する災いも終わりました。
この物語は何を教えているのでしょうか?
触らぬ神に祟りなしということなのでしょうか?😅そうではないと思います。
ペリシテ人たちは主の懲らしめを受け,その偉大な御力を見たのですが,悔い改めることはなかったということです。ペリシテ人たちは懲らしめによる災いは終わりましたが,真の信仰と救いをいただくチャンスは逃したということです。
そしてこのようなことはペリシテ人だけではなく現代に生きる私たちにも起こってくることなのです。
ペリシテ人たちはイスラエルの神の偉大な御力と聖なる裁きを目の当たりにしました。その御方は彼らの偶像ダゴンなど比較にならない御力を持っていることを体験したのです。彼らはその聖なる裁きによって耐えられないような苦しみを味わいました。
しかしそれにも関わらず,彼らはこのイスラエルの神に求めることも,このイスラエルの神に近づき礼拝することも,自分たちの偶像崇拝を悔い改めることもありませんでした。彼らはイスラエルの神に近づくのではなく,イスラエルの神に離れてもらうことにしたのです。
彼らが求めていたのは目の前の苦しみを取り除くということだけであり,真の神を知りたいとも,ましてやその神に従って真の祝福を受けたいとも思わなかったのです。
もしペリシテ人たちが懲らしめを通してへりくだり,悔い改め,真の神を知り,真の神に従いたいと思って,それを実行していたらと思います。彼らは癒されただけではなく,永遠の祝福を受けることになったのではないかと思います。
人は神に懲らしめられたら悔い改めるわけではないのです。苦しみは取り除いてほしいとは思うのですが,悔い改めようとはしないことほとんどだと言うことです。
苦しみが終わるとまた元の生活に戻って行ってしまうのです。神に懲らしめられる時,神に近づくのではなく神に離れて行ってほしいと思うことのほうが多いということです。
それほどまでに人間の中に根付いている神から離れようとする罪の性質は根深いものなのです。真の神なんて知りたくもないし,近づきたくもない,そして真の神に近づいてもほしくもない,そんな罪の性質に人はがんじがらめに縛られているということです。
[ローマ人への手紙 3:10,11,12,13,14,15,16,17,18]
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
そのような私たちが懲らしめを通して悔い改め,神を知ることを求め,神に従うことを求めるようになったとしたら,それこそが最大の恵みであり,どんな奇跡よりも大きな奇跡であるということです。それはただ聖霊さまが働いてくださったということであり,新しい心と新しい霊が与えられたということなのです。
[エゼキエル書 36:25,26,27]
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。
最も恵まれた人,最も祝福された人,それは悔い改める心を与えられた人,神を知りたいという渇きが与えられた人なのです。