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獄中からの励まし

エペソ人への手紙 6:18,19

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

今日の聖書箇所
エペソ6:18〜24

今日もエペソ書から恵みをいただいていきましょう。

使徒パウロは祈りの勧めによって霊的な戦いでの勝利の鍵を教えます。どれほど優れた武具であってもそれを使うことができなければ意味がありません。

霊的な戦いの武具を効果的に使うことができる霊的な力と知恵はただ祈りによって与えられていきます。

祈りこそ霊的な戦いの土台となり、基礎なのです。その祈りはどのような祈りなのでしょうか?

パウロはそれが御霊による祈りだと言うのです。ただ祈ればいいというのではなく御霊によって祈ることが重要です。

宗教にはみな祈りがあります。それらの中心は自分たちの願いを叶えることです。しかし聖徒たちの祈りはそうではないのです。それは御霊との交わりであり、御霊によって神の御心が実現していくことを願うこと、それが聖徒の祈りなのです。

そのためには御霊との親しい交わりの中でいつも神の御心、御霊の導きと促しを敏感に受け取れるようになっていなければなりません。それが霊的に目を覚ましていると言うことです。

聖霊は風のようなお方です。吹く風が日毎に違うように聖霊の導きもいつも同じではなく日毎に変化するのです。それゆえ御霊によって祈るなら念仏を唱えるような祈りにはならないのです。私たちは何をどう祈るべきか分からない者たちなので聖霊に全て助けていただかなければならないのです。

また御霊によって祈るなら自分の肉の欲を実現させるために祈るのではなく神の御心の実現を願い求めるようになります。神の御心は神の国が拡大していくことであり、魂が救われていくことであり、主の教会が建て上げられていくことです。

御霊によって祈るならそれらが祈りの内容の中心となっていくのです。パウロは自分が獄中にあっても福音を大胆に語れるように祈ってほしいと言っています。御霊によって祈るなら主の働き人のためにも必ず祈るようになっていきます。

そして御霊によって祈るなら忍耐の限りを尽くして祈るようになります。聖書協会共同訳では根気よくと訳しています。御霊に導かれて祈ってもすぐには応えらないことが多くあります。しかし一度祈るようにと御霊の感動があったなら、それが答えられたという確信が来るまで祈り続けるのです。

このような御霊による祈りの中で神の武具を的確に用いることができるようになり、一つ一つの霊的な戦いに勝利していくことができるのです。

最後のパウロは忠実な弟子であったティキコをエペソの聖徒たちに遣わし、自分の事情を知らせ、エペソの聖徒たちを励ましたいと言うのです。獄中にあってもパウロはますます主に熱心に仕えており、信仰はますます強くなり、主の働きはますます進んでいることを伝えてエペソの聖徒たちを励ましたのでしょう。

[エペソ人への手紙 6:21,22]

私の様子や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。

獄中にいるパウロが外にいるエペソの聖徒たちを心配して励まそうとしているのです。何というパウロの愛でしょう🥲そのパウロの姿こそ十字架に向かうイエス・キリストと同じ姿であり、そのパウロの愛こそ十字架のイエス・キリストの愛と同じ愛ではないでしょうか?

使徒パウロには私は死んでもあなたは生きるべきだというイエス・キリストの十字架の愛が満ち溢れていたのであり、その愛がこのような手紙となって現れていったのだと思います。

これこそ霊的に成長した者の姿であり、キリストの満ち満ちた身丈にまで達した者の姿ではないかと思います。

[エペソ人への手紙 4:13]

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

私たちもまた祈りを通して主の大能の力で強められ一つ一つの霊的な戦いに勝利していくことで一歩一歩そのような姿に向かって成長させられていきたいと思います。

今日の祈り
主よ、御霊によって祈ることを教えてください。霊的な戦いで勝利することで朽ちぬ愛で主を愛する者へと成長させてください。

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