全てが益になる条件
[サムエル記 第一 18:25,26,27]
サウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。サウルの家来たちはこのことばをダビデに告げた。王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた。そこで、期限が過ぎる前に、ダビデは立って、部下と出て行き、ペリシテ人二百人を討って、その陽の皮を持ち帰った。こうしてダビデは、王の婿になるために、王に対して約束を果たした。サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。
今日の聖書箇所
Iサム18:17〜30
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。
サウルのダビデに対する妬みと猜疑心は強い殺意となっていき,サウルはダビデを殺すための策略を次々に立て,実行していきます。
サウルは自分の上の娘,メラブを利用してダビデを殺そうとします。上の娘メラブを与えるから,ペリシテ人との戦いに出て行くようにとダビデを罠をかけます。ペリシテ人との戦いを通してダビデを殺そうとしたのです。
ダビデは自分は身分が低く,王の婿になることなどできないとそれを断ります。王の婿になるための花嫁料を払うことができないということです。
[サムエル記 第一 18:18]
ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」
サウルは罠は失敗したかに見えましたが,サウルは諦めません。今度は下の娘ミカルがダビデを愛していることを知ると,ミカルとの結婚を持ちかけます。娘ミカルの恋心をも利用するのです。
そしてダビデが花嫁料のゆえにそれを断らないように,花嫁料としてペリシテ人の陽の皮100を望んでいると家来を通して伝えます。これはペリシテ人100人を討ちなさいということです。
サウルはダビデを何としてもペリシテ人との戦いに向かわせ,ダビデをそれによって殺そうとするのです。
しかしダビデはペリシテ人と戦い200人を討ち,この条件をクリアしてしまいます。サウルはミカルをダビデに与えざるを得なくなってしまいます。
これによってダビデは王の婿となり,次の王になるための正統的な地位を確立していくことになるのです。
サウルはダビデを殺そうと次々と罠を仕掛けますが,かえってそれらがダビデの力を増し,ダビデが王になるための準備となっていくのです。このようになって理由をサムエル記はこう記しています。
[サムエル記 第一 18:28]
サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。
主が共におられる時にサウルの悪意と罠も全てがダビデを王としていくための主のご計画に用いられていったのです。
私たちの人生の歩みの中でも時にサウルのような存在と出会うことがあります。悪意を持って私たちを執拗に攻撃してくる,そういう存在が許されることがあります。そしてその背後にはサタンがいます。これは人だけではなく私たちを苦しめ続ける問題ということもあります。
私たちはそのような存在を恐れ,神がいるならなぜ?と試みに会ってしまいます。しかしそのような時こそ私たちは主が共におられるという信仰に立たなければなりません。
そして全能の神はどんな妨害や攻撃があっても,必ずご自身の御心を成し遂げてくださるという信仰に立たなければなりません,どんな人も,どんな問題も主の御手の中にあり,そして主は全てのことを働かせて益としてくださるのです。悪魔のどんな策略も神のご計画を何一つ妨げることはできないのです。
[ローマ人への手紙 8:28]
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ダビデの人生はこの御言葉が真実であることを証明しています。多くの人がこの御言葉を知っており,よく引用しますが,それをダビデのように実体験しているかというとまた別です。
ある人は聖書にはこう書いてあるけど,自分にはそうなってはいないと感じるのではないでしょうか?悪いことが起きてこの御言葉を信じて感謝したけど,何も変わらなかったという人もいるでしょう。ここで聖書は自動的に全てのことが共に働いて益となると言っているのではありません。「神を愛する人たち」にはそうなると言っているのです。
信じている人ではありません。愛する人たちです。ダビデがまさにそうでした。ダビデは追い詰められればられるほどますます主を求めていきました,苦しければ苦しいほとますます主を賛美し,主を礼拝し,叫んで祈っていきました。それらが詩篇に多く残されています。
私たちはどうでしょうか?苦しければ苦しいほど主を求めているでしょうか?それとも苦しみの中で主は本当にいるのか?私を愛しているのか?と主を試みているでしょうか?苦しければ苦しいほど主に近づくのではなく,かえって主から離れてしまっているのではないでしょうか?
それゆえに全てが働いて益となるというこの御言葉の成就を見れないのではないでしょうか?私たちが神を愛する時,どんな悪魔の罠も策略も攻撃も何一つ私たちを害することはできず,全ては益となっていくのです。
それでは神を愛するとはどういうことでしょうか?それはただ主よ,愛します,感謝しますと言うことではありません。神を愛するとはその御言葉に従うことなのです。そのような人を神は悪魔の全ての策略から守り,悪魔の働きをも転用,善用してご自身の善き御心を実現してくださるでしょう。