神のプロセスの中で無意味なことはない
[へブル人への手紙 8:6,7]
しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。
今日の聖書箇所
ヘブル8:1〜13
今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。
ヘブル書の著者は苦難の中でかつての古い契約に戻りたいという誘惑の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに永遠の大祭司となって神の御子イエス・キリストが実現してくださった新しい契約とモーセによる古い契約を比較して新しい契約の優越性,完全性をさまざまな方向から解き明かしていきます。
神はエジプトで奴隷であったイスラエルの民をモーセを通して解放し,そのイスラエルの民とシナイ山で契約を結ばれました。十戒を始めとする律法を与えられ,その律法を守るならあなた方を祝福するというのがその契約の中心でした。
しかしその後のイスラエルの歴史は民がその契約を守れないことを証明するような歴史となってしまいました。律法は神の民としてのあるべき姿を示し,神の民がどのように神に従って祝福されるべきかを示していました。
しかしあるべき姿が示されれば示されるほど,それとはあまりにもかけ離れた民の姿が明らかになり,またなすべきことが示されれば示されるほど,それを行う力がない民の無力な姿が明らかになってしまったのです。
それゆえ神はその古い契約には欠けがある,つまり古い契約は不十分で不完全であるとして新しい契約を結ぶことを語られるのです。
[へブル人への手紙 8:8,9,10,11,12]
神は人々の欠けを責めて、こう言われました。「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。──主のことば──これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
これはエレミヤ書31章31節〜34節の引用です。私たちは完全なお方である神がなぜ欠けがある,不完全で不十分な契約を与えられたのか?と疑問に思うことがあります。
初めから完全な契約を与えてくださればいいのにと思ってしまうことがあります。律法が人を救うことができないなら最初からメシア,救い主を与えてくださったら良かったのにと思ってしまうことがあります。
なぜ古い契約があり新しい契約があるのでしょう?なぜ旧約があり新約があるのでしょう?そこには神が御心を示し,ご計画を成し遂げていかれる方法が示されているのです。
神はご自身の御心を段階を踏んで示され,またご自身のご計画を段階を踏んで実現していかれるのです。これを神学の言葉で啓示の漸進性(ぜんしんせい)と言ったりします。
神は無限で完全なお方なのですが,被造物である人間は有限で不完全なのです。人にはいろいろな限界があるのです。その人間に最初からバーンと神のご計画を示しても限界のある人間はそれを到底受け取ることができないからです。
さらには人間はアダムの罪以来,罪の性質によるさまざまな制約と限界があるのです。それゆえ神は少しずつ少しずつ人間にご自身とその御心を示し,少しずつ少しずつご自身のご計画を実現していかれるのです。
古い契約がなければ新しい契約を理解できず,旧約の律法がなければ新約の恵みもないのです。それゆえ古い契約や律法が無意味だとか不必要だったということではなく,それは必要で意味と目的のあるプロセスだったということです。
旧約は文字であるとしたら新約は霊であり,旧約は外なる律法だとしたら新約は内なるいのちであり,旧約が目標だとしたら新約はそれを達成する力であり,旧約が形式的服従だとしたら新約は愛による従順であり,旧約が刑罰による義務だとしたら新約は感謝による献身なのです。
それらの新約の恵みを受け取り,理解できるためには旧約というプロセスが必要だったのです。旧約の律法が明らかにするのは人間の救いようのない罪深さとそれからどうしても離れることができない人間の呪われた状態であり,新約の福音が明らかにするのはこの答えなのです。救いようのない人間の罪が永遠の大祭司であるイエス・キリストの十字架の血の贖いによって完全に赦され,清められること,そして罪赦され清められた者に与えられる聖霊によって神を愛する新しい心と新しい霊が与えられ,愛によって御言葉に従順していく者へと変えられるということなのです。
旧約時代の聖徒たちはそのメシア,永遠の大祭司による救い,新しい契約をひたすら信仰によって待ち望んできたのです。アブラハムを初めとする聖徒たちはそれがやがて来ることを信じて忍耐して主に従い続けたのです。そして遂にその新しい契約が神の御子が人となって来てくださることで実現したのです。旧約の聖徒たちはそれを見て,自分たちの信仰と従順が無駄ではなかったことを知って,どれほど喜んだことでしょう。
私たちの人生にも神はご自身の御心をプロセスの中で明らかにされ,ご自身のご計画をプロセスの中で成就していかれます。そのプロセスの中では意味がないと思ったり,分からなかったりすることも多くあるのですが,それによって私たちが信仰を失って従順の道から外れてしまうならば,神のご計画がストップしてしまいます。
ユダヤ人クリスチャンたちは続く苦難の中で信仰を失いそうになって,後退しようとしていました。それゆえヘブル書の著者はそうしてはいけない,今こそ長いプロセスを通して新しい契約を実現された神を信頼して,ますます従順の道を歩みなさいと戒めているのです。
旧約での挫折や失敗を通して神は新約の完全さと栄光へとご自身のご計画をバージョンアップしてくださいました。私たちの人生にも主はそのようなご計画を用意してくださっておられます。それゆえ目先のことで揺り動かされることなく信仰による従順の道,聖霊による献身の道を歩み続ける者となりたいと思います。
今日の祈り
主よ,神のご計画を理解できず,後退しやすい者を憐れんでください。私の人生になされた御業を完成してくださる主にどんな時も信頼して最後まで信仰と従順の道を歩ませてください。
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