悔い改めることこそ最高の祝福です
[マルコの福音書 3:28,29,30]
まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
今日の聖書箇所
マルコ3:20〜35
今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきたいと思います。
イエス様が行くところどこでも病める者は癒やされ、悪霊は追い出され、しるしと不思議が次々と起こり、人々は群がり集まりました。イエス様と弟子たちは食事をする暇もないほど忙しく働いていました。
しかし一方ではイエス様に対する非難中傷、迫害、攻撃も本格化してきました。イエス様を最も激しく攻撃したのは罪人と言われる人々ではなく宗教家たちでした。
人々から熱心に神に仕えていると思われていた宗教家たちがあらゆる手段を使ってイエス様を迫害したのです。その理由は群衆の人気がイエス様に集まっていることに対する妬みでした。
また人々が自分たちから離れていくなら彼らの生活基盤も揺り動かされてしまうことになるからです。しかしイエス様によって力ある御業が次々と起こっているのは否定しようがない事実なのです。もしそのような力ある御業が神によるものだと認めてしまうなら、自分たちの無力を認めなければならず、イエス様を神の人として認めなければならなくなってしまいます。悔い改めなければならなくなるということです。
それゆえ宗教家たちは何としてもイエス様を引きずり下ろすために、イエス様による力ある御業は悪霊によるものだというデマをでっちあげて、それを広めたのです。彼らもそれが神の霊によることは知っていたのですが、そんなことよりとにかくイエス様を引きずり下ろさなければ自分たちの宗教商売が上がったりになってしまうからでした。
彼らは人々の罪を赦すイエス様を神を冒涜していると非難したのですが、自分たちが聖霊を冒涜する罪を平気で犯していたのです。
イエス様はそのような彼らに神を冒涜しても赦されるが、聖霊を冒涜するならそれは永遠に赦されることはないと言われました。なぜなら聖霊は罪を明らかにして、悔い改めを通して罪の赦しへと導いてくださるお方だからです。
その聖霊の働きを悪霊の働きだと冒涜するなら、もはや悔い改める可能性はなく罪の赦しを受け取ることは永遠にできなくなるからです。
イエス様がここで聖霊を冒涜する者は永遠に赦されることはないと言われたのは最終的な裁きの宣告ではないのではないかと思います。そこまで厳しく警告してパリサイ人、律法学者などの宗教家たちに悔い改めを迫られたのではないでしょうか?
パリサイ人、律法学者たちはそれまで人々に敬虔に神に仕える信仰者だと思われていたのですが、イエス様が現れるとその偽りの仮面が全てはぎ取られ、実は彼らは神ではなく金が好きで、神の言葉ではなくこの世が好きで、貪欲で名誉欲の塊であることが暴き出されてしまったのです。
イエス様がそれを暴いたというよりも、イエス様の御前にいるだけで自然にそうなってしまったのです。光が来たので闇が自然に明らかになったと言ってもいいでしょう。
私たちも主の御前に出るなら、隠れていたいろいろな罪が明らかになってしまうのです。主の御言葉を聞くなら隠しておきたい闇が明らかになってしまうのです。
そのような時に人々の対応は3つに分かれます。一つは激しく反発してそれを否定してしまうことであり、二つ目は光から逃げてしまうことであり、三つ目は自分の本当の姿を認めて悔い改めることです。
神の御言葉を聞くと「そんなことはない!私は間違っていない!」と頑なにそれを否定しようとする罪の力、肉の頑なさが強力に働いてきます。それに従っている限り悔い改めることはできず、赦しも癒しも聖めもないまま終わってしまいます。
肉の私たちは頑なで悔い改めようとはしないのです。それゆえ悔い改めの恵みをいつも祈っていなければ悔い改めなどできるものではありません。私の中にもパリサイ人がいないか聖霊様に照らしていただき、聖霊様に悔い改めの恵みを祈り求め、聖霊様による赦しと癒しの恵みを受け取る者となりたいものです。御言葉を聞いて悔い改める人こそ聖霊の人であり、最も祝福された人だからです。
緑の牧場グレースチャーチ
牧師 股村 大