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神の選びの基準
[サムエル記 第一 16:11,12,13]
サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。
今日の聖書箇所
Iサム16:1〜13
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。
サムエルはどこまでも不従順、不信仰なサウルのことで悔やみ、悲しみます。サムエルにしてみれば、自分が油を注いで王としたサウルが主に従わず、主の御心を痛めていることは自分自身の失敗だと思ったのではないでしょうか?
サムエルは深く後悔したのではないかと思います。そしてああしていれば、こうしていれば、ああしなければ、こうしなければと後悔の悪循環の中に入ってしまったのではないかと思います。
しかし主はいつまで後悔し悲しんているのかとサムエルを戒めます。
[サムエル記 第一 16:1]
主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」
これはとても大切なことです。神のご計画はどんな時も変わることなく進められていくからです。人間のどんな罪も反抗も失敗もそれをとどめることはできません。
サムエルはもしかしたらサウルのゆえにもう自分は終わった、イスラエルも終わったと思ったかもしれません。しかしそうではなかったのです。
私たちもまたあの人のゆえに、またこの出来事のゆえに自分はもう終わりだと思ってしまうことがあるかもしれません。そしてどうしてこんな事にと思い、あの時ああしていればという後悔の無限ループに入ってしまうことがあるかもしれません。
しかしそんな事をしていたら、本当に私たちは自分の人生を滅ぼしてしまうことになりかねません。神のご計画はどんなところからも再び動き出すのです。私たちはどんな失敗と挫折の中からももう一度やり直すことができるのです。
主は後悔と絶望の中にいた老いたサムエルに再び使命を授けてくださいました。それがダビデに油を注ぎ、ダビデを新しい王とするという事でした。イスラエルに新しい時代を開くための準備を年老いたサムエルに与えて下さったのです。
私たちがどんな挫折と失敗をしたとしても主は私たちにも再び使命を授けてくださいます。私たちがその使命を受け取り、立ち上がる時に、主は私たちをも用いて新しい時代を開くことができるのです。
主はエッサイの息子たちの中に新しい王を見出されました。それがダビデでした。サムエルはエッサイの息子たちを呼んで、いけにえを捧げ、食事をしますが、長男エリアブを見た時にこの者が主に選ばれた者であると思ったのですが、そうではありませんでした。
[サムエル記 第一 16:6,7]
彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
サウルもまた容姿の優れた者でした。サムエルもまたこの世の基準、人間の見方に影響されていたのです。王として軍人としてふさわしい体格、容姿また能力がなければならないと思っていたのです。
しかし主にとってはそうではなかったのです。主にとって何よりも大切なことはご自身に向かう心があるかどうかであり、謙遜に従う心があるかどうかだったのです。
少年ダビデはエッサイの息子だったにも関わらず、数にも入れられない存在でした。理由はよく分かりませんがダビデは親、兄弟からも無視され、ないがしろにされている者だったのです。
人が見るならば絶対に王になどなれるはずのない者でした。しかし主はそのダビデを選ばれたのです。
私たちもまた自分を見る時に何の取り柄もない弱く、無力な者であると感じることがあります。しかしだからこそ主は私たちを選んで下さったのです。主が選んで下さらなかったら、イエス様を信じることも、聖書を読んでいることも、このメッセージを読んでいることもないからです。
サウルという名前は「大きい者」です。エッサイが言った「末の子」とは最も小さい者という意味もある言葉です。主はその最も小さい者であったダビデを選んで下さったのです。
同じように最も小さい者である私たちを選んで下さった主をほめたたえましょう。小さく弱い私を選んで、主の働きに召して下さった主を誇りましょう。そしてダビデのような謙遜で従順な心を与えてくださるよう祈りましょう。
そのような主に対して謙遜で従順な者、「最も小さい者」を用いて主は新しい時代を開いてくださいます。