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神のご臨在は祝福にも裁きにもなります
[サムエル記 第一 5:11,12]
それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。
今日の聖書箇所
Iサム5:1〜12
この箇所を2,3回読んで,黙想し,心に響くことをメモしましょう。
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。
イスラエルが神の箱を持ち出して臨んだペリシテとの戦いはペリシテの大勝利に終わりました。神の箱は敵国ペリシテに奪われ,神の箱はペリシテの神ダゴンの神殿に置かれます。
古代の人々は戦争に勝敗はそれぞれが信じている神々の戦いと考えられていたので,ペリシテ人たちは自分たちの神ダゴンがイスラエルの神,主に勝ったのだと考え,神の箱をダゴンの前に捕虜のように置いたのです。これはイスラエルの神に対する侮辱でした。
しかしイスラエルの神は人々に侮られるような御方ではありませんでした。イスラエルの民も神の箱を自分たちのために利用して主を侮りました。同じようにペリシテ人も神の箱をダゴンの捕虜のように扱い侮ったのです。
それはペリシテの国と人々に災いと裁きを招くことになりました。ダゴンの偶像は倒れ,頭と両手は切り離されて,神の箱の前に倒れてしまいました。
[サムエル記 第一 5:4]
次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。
さらにペリシテの人々に主の御手は重くのしかかり,人々は腫物で打たれることになり,神の箱はあちこちに移動させられ,ペリシテ人たちに混乱と恐慌が起こってしまいました。
これらは何を意味しているのでしょうか?神の箱は主の臨在と御力を象徴しています。主の臨在はそれを尊び,喜ぶ人々には大きな祝福となりますが,それを侮り,蔑む人々には裁きとなるということです。
ダゴンという偶像を喜んでいたペリシテ人のただ中に神の箱が来て,その聖なるご臨在と力が現された時に,それは偶像崇拝に対する厳しい裁きをもたらしたのです。主はご自身の聖なる御名の栄光を現されたのです。万軍の主が偶像の下に置かれるなど,決して許されないことであり,あえてそのようなことをしたペリシテ人たちに主は聖なる裁きを下されたのです。
イスラエルの民も聖なる神の箱をふさわしく扱うことなく自分たちのために利用して裁きを招きましたが,ペリシテ人たちも聖なる主を侮り,大きな裁きを招いてしまったのです。
主のご臨在はそれを敬い,喜び,歓迎する者たちには大きな祝福をもたらします。しかしそれを侮り,蔑む者たちには厳しい裁きをもたらすのです。
主のご臨在を敬い,喜び,歓迎した人とは誰でしょうか?それがまさにハンナであり,サムエルであり,そのサムエルによって立てられる後のダビデでした。そのような人たちがどれほど祝福され,用いられ,主の栄光を現したか,それに反して主のご臨在を軽んじ,無視,侮った人たち,エリと息子たち,契約の箱を利用しようとしたイスラエルの民,またペリシテ人たちそして後のサウルにどれほど厳しい裁きが下り,災いと敗北が与えられていくことになったのかをサムエル記は示しているのです。
私たちは主のご臨在を敬い,喜び,歓迎する者となり,祝福されていく者とならなければなりません。それでは主のご臨在を敬い,喜び,歓迎するとはどのようなことでしょうか?それが真実なる礼拝を捧げることであり,礼拝を通して主の御言葉を受け取り,それに従うことなのです。
主は私たちの最大限の礼拝,敬拝,賛美と感謝を受けるべき御方なのです。そのように主に仕える者たちに主は豊かな祝福と勝利と栄光を現してくださるのです。私たちは万軍の主,聖なる主にふさわしい礼拝を捧げているでしょうか?それとも主を利用しようとしているだけなのでしょうか?それをいつも点検していく必要があるのです。