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聖霊に酔うなら自由になります
[使徒の働き 2:14,15,16,17]
ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』
今日の聖書箇所
使徒2:14〜21
今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。
ペンテコステの日の聖霊に満たされたペテロは他の使徒たちと共に立ち上がって説教を始めます。50日前には絶対にイエス様を裏切らないと誓いながら、女中の一言に震え上がってイエスなど知らないと三度も否定したのがペテロでした。
そのペテロが人々に殺されることも恐れずに大胆にイエス様のことを伝えるようになったのです。そしてただ熱心で大胆だったというのではなく、聖書を正確に引用して今、起こっている聖霊降臨の出来事の意味を神の救いの歴史の中で明らかにしていくのです。
それはペテロの力や知恵でなされたことではないことが明らかです。その全ては聖霊の力と知恵によることだったのです。聖霊に満たされる時に人は人間の能力や知恵をはるかに超えることができるようになると言うことです。今までの自分のさまざまな限界を大きく超えることができるようになるのです。
聖霊に満たされる時、人はただの肉の人から神の人、「神人」とも呼べる新しい存在になると言うことです。聖霊降臨はそのような「新人類」を生み出すのであり、そのような神の子たち、霊的な人間たちの登場こそ神の救いの歴史の目的であり、神の悲願でした。それはアダムの罪以来、人間は神のかたちを持つ神の子から霊性を失った罪の子に堕落し、神と親しく交わりこの世を治めていく霊的な存在からこの世に支配される肉的な存在へと堕落してしまったからです。
メシアであるイエス様の降臨、そしてその十字架の血と復活による贖いの御業の目的はそのような聖霊に満たされた神の子たち、霊的に生きている新しい人類を創造することだったのです。
旧約時代は聖霊は預言者、王、祭司などの特別な人にしか注がれませんでした。それゆえモーセはこう言っています。
[民数記 11:27,28,29]
それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
そして遂にメシアであるイエス様の十字架の血による贖いと復活によってこのようなモーセの願い、数々の預言者たちが預言してきた聖霊降臨が実現したのです。
その聖霊降臨はユダヤ人だけではなく全ての民族に、そして年齢、男女の差別なくただメシアであり主イエスの御名を呼び求める者に与えられることとなったのです。
使徒ペテロはヨエルの預言を引用して聖霊降臨が神の約束、神のご計画の成就であることを示します。
聖霊降臨、聖霊に満たされるとどのようなことが起こってくるのでしょう。
ヨエルの預言にはこうあります。
『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』
その時、人々は神からの啓示的な導きや示し、神の栄光と力、天の御国を直接的に体験するようになると言うことです。簡単に言うならば神様のこと、天国と地獄のこと、霊的な世界のことがどんどん分かってしまうと言うことです。
それまではそれらはただのおとぎ話、作り話のようなものでそれが事実であるなどとはとても思えなかったのに、それがはっきりと事実であることが体験的に分かってしまうのです。
それは今までは全く機能していなかった霊的な目と霊的な耳が開かれ、機能するようになると言ってもいいのではないかと思います。
次に終わりの日を告げるしるしと不思議が起こるのです。
[使徒の働き 2:19]
また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
イエス様の再臨、神の最後の裁きの日が到来するしるしと不思議が天と地に起こるのです。ペンテコステの日に弟子たちが異言を語り、いろいろな言語で奇跡的に神の御業を証ししたのもそのしるしの一つでした。
使徒の働きを見ると弟子たちを通して癒しや悪霊追い出しなどのしるしと不思議が次々に起こっていきます。それらを通して神の御言葉、イエス様の福音、そして終末の裁きが近いことが真実であることが証明されていくのです。
さらに聖霊降臨、聖霊の満たしが起こっていくと人は酒に酔ったようにイエス様に、神の国に夢中になっていくのです。そして自分に対するこだわりや囚われから自由にされていくのです。
聖霊に満たされた弟子たちを見て人々の中には新しいぶどう酒に酔っているのだと嘲る人たちもいたのです。
酒に酔った時にようにすっかり自分を忘れるような喜びに満たされていたのです。弟子たちはもう自分の命の危険も忘れてイエス様のことに、神の国のことに無我夢中になっていたのです。
そしてこれこそ全ての人が心の奥底で求めているものではないでしょうか?本当に夢中になれるものが欲しい、自分の限界を突破したい、新しい自分になりたい、そんな願いが全ての人にはあるのではないでしょうか?それをエクスタシーへの欲求と言ったりします。
酒、薬物、性、いろいろな依存症にのめり込むのもみなそれを求めているからではないでしょうか?ひと時でも自分を忘れるような喜びと慰めと幸せ、自由を求めてそれらにはまってしまうのではないでしょうか?
そのような欲求こそ人が霊的な存在であることを示しているように思えるのです。衣食住という肉のものが満たされているだけではどうしても満たされないのが人間という存在ではないかと思います。
その人間の根源的な渇きを満たしてくれるもの、それこそが聖霊降臨、聖霊の満たしであると言えるでしょう。
私たちはそれぞれ何かに酔っているのではないでしょうか?自分に喜びと慰めを与えると思えるものに夢中になっているのではないでしょうか?ある人は酒に、異性に、薬物に、食べ物に、仕事に、スマホに、趣味に、子どもに・・・・慰めを求め、喜びを求め、満たしを求めて夢中になっているのではないでしょうか?
しかしそれらは夢中になればなるほど、溺れれば溺れるほどやがて私たちにきばを向いて私たちを束縛し、破壊してくるのです。
私たちを本当に満たし、幸せにし、自由にし、慰め、解放するもの、それが聖霊さまなのです。問題は私たちが酔うほどに聖霊に満たされたことがないということです。それゆえイエス様を信じていると言いながら信仰生活がつまらなく、信仰生活がただの形式的な宗教生活になってしまうのです。そのような人はイエス様を信じていると言いながら、聖霊以外のものから慰めと満たしを求めるようになるのです。
私たちに本当に必要なのは酔うほどに聖霊に満たされていくことではないでしょうか?その時、脱自我、超自我という霊的な世界、天の御国が開かれてくるのです。
今日の祈り
主よ、私は何に慰めを求め、何に酔っているでしょうか?真の自由と慰めを与える聖霊様をひたすらに求めることができるようにしてください。