奇跡はいま与えられているものから起こります
[列王記 第二 4:1,2,3,4]
預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」
今日の聖書
II列王4:1〜7
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
エリシャのもとに預言者の夫を亡くしたやもめが来て、自分の置かれている苦しい状況を訴えます。
夫が亡くなって借金だけが残り、債権者に残された子どもを奴隷に売られそうになっていると言うのです。
当時に北イスラエルは偶像崇拝に満ちていたので主の預言者として生きることは多くの困難と迫害があったと思われます。経済的にもとても苦しい状態に追い込まれそれゆえに借金を抱えてしまったのではないかと思います。
そのような困難の中で主なる神を畏れて歩んできたのに夫は亡くなってしまい、借金だけが残され、子どもまで奪われそうになっているのです。このやもめこそ主なる神を恨み、呪ってもおかしくなかった人です。
ヨブ記の中で誰よりも敬虔に神を畏れる人であったヨブに次々と降りかかる試練を見てヨブの妻は神を呪って死になさいと言いました。
[ヨブ記 2:9]
すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」
しかしこのやもめはそうはしませんでした。最悪とも思われる試練の中で主に叫び求め、その御言葉に従うことで勝利していったのです。このやもめが試練に勝利していくことができた秘訣は何でしょうか?
第一にこのやもめは主に叫び求める人でした。
[列王記 第二 4:1]
預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。
このやもめも亡くなった預言者である夫も苦しい時の神頼みのような信仰ではなく、いつも主に叫んで祈っていた人だったのでしょう。そうでなければ偶像崇拝の満ちている北イスラエルで預言者として生活することなどできなかったはずです。
そのようにいつも祈っていたので、最大の試練と危機の中でも主に叫び求める信仰が与えられたのではないかと思います。
問題が起こってから問題解決のためだけに祈るという困った時の神頼み、ご利益信仰では試練に勝利することはできないのです。問題がない時も絶えず祈って主と交わっている者だけが問題が起こった時にも信仰を持って主に叫び求めることができるのです。
第二にこのやもめは主の御言葉を求める人でした。
預言者エリシャのところに来たのは預言、主の言葉を求めに来たと言うことでしょう。預言者エリシャがお金をたくさん持っていたとは考えられないからです😅しかしエリシャには霊の力と神の言葉、霊でありいのちである神の言葉が満ち溢れていたのです。
エリシャはこのやもめに家に何があるかと聞きます。やもめは何もありません、ただ油の壺が一つあるだけですと答えるのですが、エリシャは主はそれを用いて奇跡を起こされると語るのです。
神の奇跡は多くの場合、今あるものを用いて、今できることから起こり始めるのです。エリシャはその油の壺一つから尽きることなく油が湧き出てくるからできるだけ多くの壺を用意しなさいと命じます。それが神の言葉でした。
第三にこのやもめは主の御言葉通りに従う人でした。
[列王記 第二 4:5,6]
そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。
空の油の壺をたくさん用意して何になるでしょうか?油は一つの壺にしか入っていないのです。油が増えることなどあり得るでしょうか?理性的、常識的に考えるならあり得ないことです。
エリシャから神の言葉を聞いてこのやもめはそんな事をして何になりますか?ということもできたでしょう。もっと私が納得できる方法を教えてくださいと言うこともできたでしょう。しかしこのやもめはエリシャが命じた通りに従うのです。
自分の考えを経験を優先する人であればエリシャが語られた神の言葉に従うことはできなかったことでしょう。しかしこのやもめは自分の考えと経験を捨てて、神の言葉に従う信仰があったのです。
その結果はどうなったのでしょうか?借金が返済できて問題が解決しただけではありませんでした。預言者の夫を失って生計の手段も亡くなってこのやもめと子どもたちがこの後に暮らしていける全ての必要が満たされていったのです。
主はケチ臭いお方ではないのです。主を叫び求め、その御言葉通りに従う者たちに溢れるほど豊かに恵みを注いでくださるお方なのです。今置かれているところで、今与えられているものを通してそのような奇跡を起こすことがおできになるお方なのです。
なぜそんなあり余るような恵みが注がれないのか?私たちには主に叫び求めるほどの熱い信仰があるでしょうか?私たちには主の御言葉通りに従う謙遜で従順な信仰があるでしょうか?
そのような信仰はご利益信仰からは生まれず、時が良くても悪くても絶えず祈って、いつも主と深く交わり、聖霊に満たされた者だけに与えられるものではないかと思います。私たちの信仰のあり方を点検していきたいと思います。