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神を信じても何も良いことはない?

[列王記 第二 18:22,23,24,25]

おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」

今日の聖書箇所
II列王18:13〜25

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

信仰に堅く立ち、宗教改革を進め、大きく祝福されていったヒゼキヤ王でしたが、その統治の14年目に大きな危機を迎えます。

強国アッシリアの大軍勢が攻めてきてユダの町々を攻め取ってしまうのです。それまで信仰に堅く立って、アッシリアにも抵抗していたヒゼキヤでしたが、この事態に大きく揺れ動いてしまいます。

ヒゼキヤは神殿を整え、礼拝を回復し、そのなすことはみな成功していきました。それゆえ自分たちはアッシリアからも守られると思い込んでいたのではないでしょうか?ヒゼキヤには成功的な統治の中で油断や緩みがあったのではないかと思います。

アッシリアは自分たちの国には攻めてこない、攻めてきたとしても大丈夫だという希望的な観測があったのではないかと思います。しかし現実にアッシリアに攻められるとあっという間にユダの町々は陥落し、大軍勢が目の前に迫ってきたのです。

ヒゼキヤはうろたえ、その信仰は揺れ動いてしまったのです。ヒゼキヤは主なる神だけにより頼んでもだめなのかと疑い、恐れ、人間的な手段で何とかしようとします。それがアッシリアの王に莫大な賠償金を支払うというものでした。

[列王記 第二 18:13,14,15,16]

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。ヒゼキヤは、主の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が主の神殿の扉と柱に張り付けた金を剝ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。

信仰に満ちていた優れた王であったヒゼキヤはすっかり弱くなり、アッシリアの王に屈服してしまうのです。そして自分が修復して整えていった神殿からも金を剥ぎ取り、アッシリアの王に渡してしまうのです。信仰と勇気に満ちて偶像崇拝と戦っていった同じヒゼキヤとは思えないほど惨めな不信仰な姿となっているのです。

主に高く評価されていたヒゼキヤもやはり私たちと同じ弱き人間であり、土の器であったということです。私たちの信仰生活にも、また人生にもこのようなスランプ、停滞期があるのではないでしょうか?

ヒゼキヤがここまで弱くされ、落ちてしまったのにはやはり自分は一生懸命、信仰生活をし、宗教改革にも取り組んでいたのになぜこんな事になるのか?なぜ主なる神は自分を守ってくれないのか?という疑い、躓き、不信仰があったのではないかと思います。それゆえに金で解決するという人間的な手段をとってしまったのでしょう。しかしそれによっては問題は何も解決せず、アッシリアの大軍は目の前に迫ってくるのです。

またアッシリアの王の側近ラブ・シャケもヒゼキヤの最も痛い所をこれでもかというほど攻撃し、嘲り、罵るのです。

ラブ・シャケはヒゼキヤの宗教改革を嘲ります。ヒゼキヤは高き所を取り除き、神殿で主なる神だけを礼拝するようにと言って主なる神により頼んできたが、その主なる神は何も守ってくれないではないかと嘲るのです。ヒゼキヤの信仰など何にも役に立たないと揺り動かすのです。

そしてラブ・シャケはアッシリアの圧倒的な軍事力を誇り、恐れに震えさせ、そしてこのような事態になったのは主なる神によるものだとまで言うのです。つまりヒゼキヤもユダの民もどんなに熱心に信仰したところで主なる神はお前たちを見捨てたのだ言うのです。

本当に恐ろしいほど巧妙なサタンの策略です。そしてサタンは今も全く同じように信仰者を揺り動かし、疑いと不信仰にとって躓かせ、その信仰を破壊してくるのです。

イエスを信じて何になる?祈って、礼拝して何になる?神が愛ならなぜお前にこんな問題が起こるのか?なぜ神がいるならお前を助けてくれないのか?神など信じていない人の方がずっと幸せではないか?と揺さぶり、疑いと不信仰、神への恨みや怒りによって神から引き離し、信仰を捨てさせ、試みの中に引きずり込んでくるのです。

このような揺るがしと試みに勝利するためには神は善いお方であること、神の愛と最善を信じ抜いていくことしかありません。そしてその神の愛と最善とは永遠という視点からのもので、この世の一時的なものではないことをしっかりと悟らなければなりません。永遠における幸い、永遠における祝福、天の御国でも報いと冠ということについて悟ることができなければ、このような揺るがしに勝利することはできないのです。

そしてそのような神の愛と最善を信じ抜く信仰は自分で作り出すことができるものではなく、ただ信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストが与えてくださる恵みによるものであり、賜物なのです。その恵みを受け取っていくためには絶えず祈り、絶えず御言葉を聞いて、主とその御言葉にとどまり続けるしかないのです。

悪魔はエデンの園以来、人間を惑わし続け、堕落させ続けています。そのような悪魔の誘惑には人間の知恵と力は全く無力です。試みの中から脱出し、その誘惑に勝利するためには今まで以上に祈り、御言葉を聞き続け、思いと考えを守っていくことしかありません。

そのように祈りに祈り、主とその御言葉を今までにないほどに求めていく者たちが試練から脱出することができ、主はその試練を大きな祝福と勝利へと逆転させてくださるのです。

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