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ぶらずに、らしゅうせよ。

3月になりました。
この時期になると、私の心は少しふわっとします。
それが春の陽気な暖かさによるものか、にっくきスギ花粉によるものかは判然としません。

もしかしたら、卒業式&修了式目前で、いよいよ終わるぞという思いつつも、一か月後にはもう次年度が始まるぞと思っているから、心が1つに定まらないのかもしれません。

きっと、教師である私だけでなく、子どもたちも同じでしょう。

3月になると、さまざまなことが起こります。
例えば、自分のことだけ考えがちだった子が他の子のために何かをするようになったり、一度もけんかしたことのない2人がけんかしたりします。

それは植物の背が急に伸びることや、おとなしかった火山が突然噴火することに似ています。
ずっと見えなかったものが静かに溜まり、ある日、目に見える大きな変化を起こすのです。


何と言っても今日の大きな出来事は、Rさんのことです。

Rさんは、私の学級に在籍している女の子です。
と言っても、Rさんは一度も私の授業を受けたことがありません。

教室に入ったのは、始業式の日だけ。
それ以来、みんなと一緒に一度も登校していません。

私はコロナに感染して4月2日から自宅療養し、始業式の日も自宅にいました。つまり、教室にいるRさんを見たことが一度もないのです。

Rさんは、1週間に一度くらいの頻度で夕方に登校します。
来るときは、いつもお母さんと一緒。
お母さんは、とても明るい方です。Rさんに、「はよ学校行きなさいよ、いつでも送ってあげるから」と言って笑いかけます。

お母さんの言葉は、聞いていてもプレッシャーを感じないから不思議です。Rさんも、実際には登校することはできなくとも、いつもお母さんの言葉に頷いています。その表情は、決して悪くありません。

最初は分かりませんでしたが、Rさん親子と接していくうちに気付いたことがありました。
それは、一見、大らかで言いたいことをそのまま口にしているかのように見えるお母さんが、心底娘を思いやって、考えながら接しているということです。

親なのだから当たり前だと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
人間は、常に困難にぶつかっていると言っても良い生き物です。親とはいえ、自分のことで手一杯なときがあります。
子どものことを考えているようで、結局自分の都合で考えてしまっていることだって、よくあります。

例えば、子供が何らかの事情で「つらい」と言ったとき、「じゃあ、行きたくなるまで学校には行かなくて良い」と安易に言う保護者がいます。
つらい理由について十分理解した上での判断であったり、いつまで学校に行かなくて良いのかをきちんと話し合ってのことだったりするのなら良いと思いますが、中には、深く考えずに休ませてしまう場合があります。

安易に「行きたくなるまで休んで良い」などと言うと、何の変化もないままに1か月、2か月と時間が過ぎてしまう場合があります。保護者は日に日に焦ってきます。

そしてある日唐突に「いつまで休んでいるの?」「夏休みが終わったら行けるよね?」「いつまでも行かないと仕事ができない」みたいなことを言い始めるのです。
子どもとしては、「行きたくなるまで休んで良い」と言われたのに、どうしてそんなことを言うのだろうと戸惑います。その瞬間、子どもにとって親は仲間ではなく、新しい敵になるのです。

いつまでも子どもは親の言いなりにはなりません。
「行け」と言われてすぐに学校に行けるほど、子どもは単純ではありませんし、心が成長して複雑になってきたからこそ、学校に行きたくない日があるのです。
そういう自分を、一番の理解者であるはずの親に共感してもらえていないのに、学校に行けるわけがありません。

教師は、登校する気持ちになれない子どもを無理やり学校に来させようとは思いません。学校が大変な場所であることは、ある意味では、教師が一番よく知っています。
「今、学校に来させるのは、本当にこの子のためになるのだろうか」と悩みます。悩んだ上で、「多分、来たほうが良いだろう」と判断して、学校に来られるように支援していきます。
ただし、保護者が「行かなくていい」と言っているのに、「学校に来て」とは言えません。
保護者と協力することが大事だし、何より本人を困らせたくないからです。

教師の世界に「ぶらずに、らしゅうせよ」という言葉があります。取り繕って教師ぶるのではなく、教師らしくあれという意味なのですが、それは親にも当てはまるのではないかと思います。

親ぶらずに、親らしゅうせよ。

私は教師であって二児の父でもありますが、こう文字にしてみると、この言葉はなかなか重いですね。

私も親ぶる時、あります。

子どもに言うことを聞かせたいから意識的に「親ぶる」こともあれば、「いい親だと思われたい」と、無意識に「親ぶってしまう」こともあります。

自分の場合は、きっと自信がないからなのだと思います。
親ぶってる時は自分の見栄とかプライドを考えていて、本当に息子たちのことを考えているのかというと、そんなことはないのかも。

Rさんのお母さんは、いつも私たちのことをねぎらってくれます。
「先生、いつもお疲れ様です」「娘のためにありがとうございます」「小さいお子さんもいるから早く帰らないといけないですよね」。
学校を悪く言うことはありません。
これは「親ぶる」ではなく、「親らしく」ですね。

その上で、「先生たちも大変だから、Rちゃん、はよ学校行きなさいよ」と笑って声をかけます。
「親ぶる」どころか、まるで友達のように。
声に切迫感がないから、「まぁ、行けるようになったらでいいんだけどね」というニュアンスを感じます。
子どもに自分のメッセージを伝えながらも、ちゃんと逃げ道も用意しているのです。
これは、子ども中心に考えていないとできません。

そしてそういう親の気持ちは、繊細な子どもであればあるほど、ちゃんと察知できます。
強い口調で責めるように「学校に行きなさい」と言うよりも、しっかりと心に伝わります。そこに共感があるからです。


2月に入って、Rさんが「6年生からはみんなと学校に行こうと思う」と言うようになりました。
これまでも、なんとなく「学校には行きたい」とは言っていましたが、声に熱がこもっていて、これまでとの大きな変化を感じました。

ただ、経験上、「○○になったら登校する」という言葉は実現する可能性が低いなと思いました。
「4月になったら新商品を発売します!」みたいなものとは違って、人の気持ちが大きく関わってくることだからです。人の心を暦に合わせようとするのは、しんどいのではないかと心配でした。

昨日、Rさんがいつものようにお母さんと登校しました。
「5時なのに空が明るいですね~!」と、空よりも明るいお母さんが言い、隣にいるRさんを向いて「ほら、もう春だよ、Rちゃん。明日行きなさい。私も休みだから、送ってあげるし、迎えに来てあげるから」と、いつもの調子で声をかけました。

すると、Rさんは、「うん」と一言。
頷くだけじゃなくて、力強い声。
「あれっ」と私は思いました。

今日、8時半にRさんはお母さんと来ました。1時間ほどで帰宅するとのことでした。保健室で養護教諭の先生と談笑したようです。

1時間目の授業が終わりかけるタイミングで、私も保健室に入りました。そして、
「せっかくだから、帰る前に友達と喋る?」と尋ねました。
バレンタインデーに、何人かの子がRさんの家にチョコレートを交換しに行ったことを聞いていたので、その子たちとなら、楽しく過ごせるのではないかと思ったからです。

「ここにその子たちだけ呼んでもいいし、今から一緒に教室に行ってもいいけど、どうする?」
そう尋ねる私に、Rさんは、
「教室に行く」
と答えました。

Rさんは、現状を変えるために、本気で行動しようとしていたのでした。
お母さんは、「先生があれこれ勉強をさせようとしたり、強引に学校に来るよう声をかけたりしないので、Rちゃんには良かった」と言ってくださったけれど、その言葉の通り、私は何もしていません。

友達のようで親らしいお母さんの存在が良かったんだろうなと、教室で友達に囲まれるRさんを見ながら、私は思いました。

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