縄文人の子孫が大切にしたもの空海
二ヶ月前にヒスイの原石を偶然、見つけました。
家の近くに古墳が多くあり、それが造成などで石や礫が廃棄物となって民家裏の捨て土のなかに埋もれていた2cmほどの濃緑色半透明の石です。
濃緑色のヒスイは裏日本の糸魚川流域にしか産出しません。
それがなぜ我が町にあるかといえば、縄文の昔から裏日本まで船で行って川をさかのぼり原石を拾って古墳に副葬物として埋葬したからです。
当時のヒスイは金より高価なものと聞いているので、これを勾玉(まがたま)に加工して大切にしていたのでしょうが勾玉は後の人がもっていったが原石は残されたのでしょう。
写真は原石なので後世の人々にはその価値は分からずに誰からも拾われず、その地表に露出した緑色の一部が前で弁当を使っている私を呼んだのだと思います。
空海の父方は佐伯氏で航海術や鉱物資源及び土木技術そしてタタラ製鉄にも精通した職人集団を束ねていたと思われます。
おそらく私はその集団の子孫なのでなにか地質学や航海術に惹かれ、空海の出自にも思いをはせるのだと思います。
ところで空海の生母は玉依御前で天武天皇系最後の男性皇族の母である井上内親王の侍女であった可能性があり、正当な皇位継承者の筆頭である皇太子とともに奈良に幽閉されその後、内親王は皇太子共々謀殺されたというのが多くの見方です。
天武天皇は壬申の乱で即位した大海人皇子ですが、その血筋をたち再び天智天皇系に変えるため藤原氏が天武系の正当な後継者を排除した事件とみられ、空海の生母、玉依姫をなにかの理由で母方の領地である讃岐に隠した可能性があります。
空海は唐から帰国し桓武天皇在位までは九州にとどまり桓武天皇没後、中央にかえって無念の最後を遂げた井上内親王とその子、他戸親王(皇太子)の霊を慰め嵯峨天皇の厚い信頼を得たのだと思います。
空海、幼名真魚が幼い頃過ごしたと思われる私の住む集落で空海の話はまったく伝わっておらず、それが隠されなければならない存在であったことを暗示しています。
その場所は善通寺の港である白砂青松の入り江、仏母院のある白方の浜であり、稚魚が生き残るために捕食者の入れない砂浜に集まる習性のある稚魚と同じ境遇の空海、幼名真魚がともに遊んだ情景が見えるようです。