ハイデガー的視点が私たちに問いかけるもの

今回、仲正昌樹さんの著書「ハイデガー哲学入門ー存在と時間を読むー」について少しお話ししたいと思う。

 まず断っておくが、私は哲学に関しては全くのど素人であり、大学で哲学を専攻するわけでもなければ、高校で倫理に真摯に取り組んでいたわけでもない。大学に入ってなぜか哲学を勉強してみようかなと思い、これなら読めるかもと思い、手を出してみたと言う程度である。本の中身は、実際わかりやすく解説されているようではあるが、私にとっては理解するのにかなり苦労した。ハイデガーの哲学(存在と時間)については以前よりも1ミリは理解できるようになったつもりではあるが、素人、知識は皆無の1学生の視点であることをご理解いただきたい。

 本を読んでみて、ハイデガーに対するイメージが少し覆ったように感じる。覆ったというよりも、彼の挑んだ問いが西洋哲学史的にどれほど重要であったかということを軽視していたことに気づいた。パスカルのかの有名な「我思う、故に我あり」という言葉は、懐疑主義、哲学的な思考の最高到達点であると私は勝手に考えていたのだが、そのパスカルでさえ見過ごしていた存在する、つまり我々が自明であると考えていた根源的な問い=存在に挑むことで哲学を再び規定しようという意図がハイデガーにはあったように思う。
 内容に関しては結局理解できずに終わったが、どうやら死に向き合うときに現存在(=人間)の本来的な存在が自覚されるらしいこと、それが普段の日常、つまりなんとなく周りに合わせて生きているという非本来的存在から脱却する瞬間であるということが重要らしいという点が読み取れた。確かに、死を考えるときに存在するってどう言うことなんだろうと今まで目を向けなかったことを意識するような気はする。
 
 よく提起される問いとして、「その学問は何の役に立つのか」というものがある。私もかつて役に立たないのなぜ勉強するのだろうかと考えた。「存在と時間」だって、そんなこと考えてどうするんだと思ってしまうかもしれない。「存在するとはどういうことかっていったって、存在することだよ」と言われてしまえば、それまでである。しかしながら、文明が発展し、幸せに生きる、よく生きるためにはどうすべきかということは誰しも考えることではなかろうか。もはやそういった問いに縛られているとまで言えるかもしれない。ただ生きるだけでは満たされない人にとって哲学(主語が大きくなってしまうが)は一つの道を示してくれるのかもしれない、、

 




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