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小説 あなたは悪辣な恋人 15


翌日、櫻木は何も無かったかのように電話を寄越し海を見に行こうと言って来た。明日はどうかと聞かれた私は、仕事だったが必ず行くと答えた。

いつの間にか私は、自分にどんな都合があっても櫻木を優先する事を覚え、気づかぬうちに自分の世界を狭めていた。まだ私は、達也と不倫の恋をしていた時の癖が抜けないのかも知れない。自分にも大切な物はあるのに、それよりも恋人と会える時間を優先にしてしまう。

自分が少しずつ、そして確実に消えていってることに何の疑問も持たずにいた。

明日は朝から川崎駅で待ち合わせをしレンタカーを借りて湘南へ行く。

櫻木から自分勝手に繰り返される激しい飴と鞭の繰り返しに、いつしか感覚が麻痺し鞭が辛かった分、飴がとろけるように甘く、少しの優しさが何倍にも感じる。

これは洗脳ではないかと考える時もあるが、
いや、愛なんて全てが洗脳だと思いを打ち消した。



待ち合わせは10時だが私は少し早め出て川崎へ向かった。

川崎の街を歩いてみたい。櫻木の生まれた街はどんな町だろうかと想像が膨らんでいき心は弾んでいく。

電車が大きな川を渡り蒲田の街へ入ると、もう間も無く川崎。

徐々に増えて来た、通勤客の憂鬱とは反対に、今日の湘南デートへの期待が込み上げ、イヤホンから流れる音楽に合わせて鼻歌を歌いそうになる。

川崎駅は思っていたより大きな駅で、改札を出て左へ行くと川崎ラゾーナがあり、右へ行くと懐かしさを感じる銀柳街というアーケード街がある。

櫻木と待ち合わせのラチッタデラはヨーロッパの雰囲気を演出していて、デートの待ち合わせには良い感じだ。

スタバのテラスで熱い珈琲を飲みながら、これからこの街で、愛する人の子供を産み育てるかも知れないと、さほど遠くない未来を夢見てしまう。櫻木が出会った時、とても好きな歌なんだと教えてくれた、スキマスイッチの「雨待ち風」がイヤホンから流れて来た。

「鳴り止まない僕の鼓動
君を追って行けばよかったのに
何も言わない入道雲
あらいざらい消し去って欲しい
雨待ち風、ほほをなでていく」


あの人に、この歌詞のような切ない想いをさせた女性が、この街にいるのかも知れない。自分の事は何も話さなし聞いてもはぐらかしてばかり。なんだか聞いてはいけないような気がして、ずっと知らない振りをしている。


「ねぇ、泰孝。

あなたは、この街でどんな両親から生まれたの?

あなたの子供の頃の夢はなに?

泰孝にとって愛って?

お願い教えて欲しい事があるの。

私の事を愛してる?

私は、貴方を心から愛してる」



少しずつ歩く姿が増えて来た頃、櫻木がお気に入りのキャップを被り歩いて来るのが見えた。


「泰孝!」

「大きな声で呼ぶなよ。恥ずかしいな。すぐそこのレンタカー行く」

「泰孝の運転、初めてだからなんか楽しみ」

「俺は免許ないから純子が運転するんだよ」

「え⁈免許ないの?前に車の話ししてたじゃない」

「免許取り消しくらって今は無い」

「は⁈何をしたら免許なくなるのよ!ねぇ、私運転しばらくしてないのよ。田舎帰った時に親の車運転するくらいだから都会は初めてよ。無理!怖いもん」

「俺が隣で教えるから言われた通り運転したら大丈夫だから。気合い入れろよ。大丈夫、大丈夫。ほらついてこいよ」

「まったくもう!大きな車は絶対嫌よ。コンパクトカーにして」

「わかったよ」

レンタカーの運転席に座ると心臓がドキドキして来たが、覚悟を決め湘南へ向かった。

「純子!はじに寄りすぎだって!もう少しそっちそっち!」

「右車線いけって!ゆっくり行くなよ!アクセル踏めって!」

「50キロって!アクセル踏め!いいから踏めって!」

「うるさいわね。黙って乗ってなさいよ。死ぬ時は一緒だから安心して」

私の運転に叫び声を上げる櫻木を横目に、音楽のボリュームを上げた。

「よし!湘南まで向かうわよ」

「やめろ純子!アクセルそんな踏むなって!」


国道134号線を走っていると海が見えて来た。

「純子、そこ曲がって。駐車場に車停めるから」

車を停め、少し歩くと目の前には海が広がる。

冬の海は寒いけれど、自分の汚れを浄化してくれる力強さがある。大きく息を息を吸うと自分に纏わりついた暗い闇が消えていた。

「気持ちがいい」

隣に目をやると海を見つめる櫻木も優しい顔になっていた。

「純子、ありがとう。いつも素直になれない事ごめんな。お前の愛情はわかっているから」

「泰孝…」

「お前は馬鹿だよ。馬鹿は馬鹿でも心の優しい馬鹿。こんな俺から離れないんだからさ」

「泰孝は孤独なの?」

「皆んな孤独だろ。それに慣れないと生きていけないしな。ただ…俺は生まれた時から孤独だった。それを言っても仕方ないから言わないだけだよ」

「泰孝……」

「そんなすぐ泣くなよ。純子、寒いから帰るぞ。前に話した俺の好きなカツカレー食いに行こう。腹減った」

「うん。カツカレー大盛りある?お腹空いたね」

「俺も大盛りだな。よし行こう」

櫻木が学生の頃から通っていたというカレー屋は、どん亭と言って川崎の武蔵新城駅を少し行った所にあった。

「ここのカレーは俺のおふくろの味。凄い好きでガキの頃から食べてたんだ。美味いだろ?」

「美味しいね。泰孝、連れて来てくれてありがとう」

私には、このカレーは少ししょっぱい。

でも2人で食べる物は不思議となんでも美味しく、嬉しそうに食べている櫻木の姿を見ていると幸せだ。

「純子、これ食べたらホテル行こう」

「まだ明るいよ」

「今さら照れても仕方ないだろ。お前はもう俺の女房なんだから」

「女房だなんてもう騙されないから」

「じゃ、もう2度と言わない」

「やだ。もう一度言って」

「純子は俺の女房。これで満足?よしホテル行こうぜ」

「もう!」


続く


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