小説 あなたは悪辣な恋人 16
通りがかりのラブホテルへ入ると、櫻木はシャワーも浴びずホテルにあった安いウイスキーを瓶のまま一気に喉に流し込んだ。
常日頃、酒は冷静さを失うから嫌いだと言っている櫻木のその姿は珍しく、私は何かあったのかと心配になる。
「泰孝、なにかあったの?」
「なにかって?」
「そうね、仕事で嫌な事があったとか友達と揉めたとか」
「別に何も無いよ。純子だけなら酒飲んでも良いだろ。仕事で嫌な事があるのは当たり前だし、ガキじゃないから友達と揉めたりしないさ」
「本当?私には何でも言ってね。泰孝を支えたいと思っているから。ねぇ、そんないっぺんに飲むから、顔が真っ赤よ」
「純子、俺は承認欲求モンスターなんだ」
「承認欲求モンスター?」
「ああ、俺は承認欲求が凄いからな。ついでに酷い天邪鬼だし」
「確かにそれはそうかも知れないね。泰孝は生き辛い?」
「あんまりそこは考えないで来た。生きるって辛いの当たり前だから」
「ねぇ、教えて欲しい事がある。泰孝はどんな家で成長したの?お母さんが昨年亡くなってから、今お父さんはどうしてるの?」
「純子、俺は幼い時に養子縁組されてるんだ」
「え、、そうだったの?この前、亡くなったお母さんは養母って事?泰孝は実の両親はわかっているの?」
「まぁな。そのうち話していくよ。なぁ純子、舐めてくれよ」
「うん…いいよ。こっちへ来て」
養子縁組でも幸せな子供も沢山いる。
ただ、泰孝は違っていたのかも知れない。
この人の扱いが難しいのは生い立ちの複雑さなのだろうか…
「純子、温かいよ。気持ちいい。純子がしてくれると安心するんだ」
「泰孝、口の中で出していいよ」
「ああ、ああ、純子いくよ…」
静かに眠りについた櫻木の髪を撫でた。
柔らかい羽根のような髪を持つ男は、生まれたばかりの小鳥の雛のようでとても愛しい。
そのうち私の胸に顔を埋めた櫻木は、赤ん坊の様に、私の乳房を探し出し柔らかい唇で乳首に吸い付いて来た。
乳首を吸う櫻木は、小さな赤ん坊の姿をしていて、その無垢な顔を見ていたら私の中にいまだ経験した事がない柔らかで温かな愛が心に生まれていく。
きっとこれは自分の中に湧き出た母性。今までとはまた違った櫻木への愛しさで全てが満たされていった。
櫻木が再び眠りについたのを確かめ、飲み物を取ろうと乳首に吸い付く唇をそっと離したその時、櫻木が大きな声で叫んだ。
「ひとりにしないでよ!何処にも行かないで。
寂しくてたまんないんだ」
「泰孝すぐ戻るのに、どうしたの?」
「俺から離れないでよ!」
私の腰に縋りつき孤独を叫ぶ櫻木を抱きしめると、その心の震えが伝わって来る。
「可哀想にね。もう大丈夫よ。よしよし。
泰孝の隣にずっといるから、もう大丈夫」
私の腕の中で瞳に涙を溜めている櫻木泰孝という歪んだこの青年は、これまでの21年間どう生きて来たのだろう。
13歳も歳上の私に愛を告白したのは、幼少期に愛が満たされなかった思いからなのか。
我儘を言うのは私が離れないか試している…
そう考えると、これまでの私に対する仕打ちも不思議と許せてしまう。
こんなにも自分の愛を求める男が目の前にいる。初めて込み上げた母性は、必ず櫻木を幸せにしようと私に誓わせた。
この先、何があっても泰孝を支えていく。
私の、この愛は全て泰孝ひとりに捧げるのだと。
………………
今日は珍しく、この辺りにも雪が降ってきた。 激しく降り続く吹雪を窓辺から見ていたら、曇り硝子の向こうにあの頃の私と櫻木の姿が蘇って来る。
心に浮かんだ櫻木を消し去るため大きく首を横に振るも、あの川崎での苦しい日々を思い出してしまった。
報われない愛を捧げ、大切な自分の時間を無駄に捨てて生きてしまった事への後悔が、私を酷く憂鬱な気持ちにさせる。
櫻木と出会った33歳の私は世間知らずもいいところだった。
ただ直向きに相手を愛してさえいれば、その思いは相手に伝わり、いつか2人は必ず成就する。
この私しか櫻木を幸せに出来ない、そんな馬鹿な自惚れに酔いしれて。
どうせあの櫻木の事だ。あの海の帰り子供のようにホテルで甘えて来たのは、私から全てを奪うための計算でもおかしくない。
「甘えれば純子は必ず俺の側にいるはずだ、あいつは頭が悪い単純な女だから、俺が言えば何もかもを捧げて来る」
相手の気持ちを察して行動する私は、騙す人間からしたら、いとも容易く思うがままになる女だったのだろう。人の優しさを利用し操っていくのは櫻木が得意とする汚いやり方だから。
あいつは、女を地獄へ堕とす事に罪悪感なんか何も感じず平気でやってのける男だ。
あの頃の私は櫻木にとってまだ利用価値があったが、散々踏み躙られ蔑まされた私は、もうすぐ47歳の誕生日を迎えようとしている。
続く
Photographer
Instagram @very_wind