小説 あなたは悪辣な恋人 17
「純子、川崎に早く来いよ」
「うん。来週にでも不動産見て決めるつもりよ。その時、泰孝は来れそうかな?」
「時間あったら行くよ」
「じゃ、すぐ動くよ。来月からは2人暮らしになるね。新しい春が始まるからワクワクするな」
桜が咲き乱れる頃、私は櫻木の街、川崎へ引っ越した。川崎駅から少し距離はあるが、近くにコリアンタウンがあり、海までは歩いて行ける距離にある古いマンションを借りる。
私は都内まで通っていた会社を退職し、櫻木を支える事を1番に考え、川崎で新たな仕事を探す事にした。この春は少しだけ自分の為にのんびりする時間を持とうと思う。
1DKの部屋は手狭だが、ここから2人で頑張って広い所へ移ったら良い。
私達はここから始まる。
さっそく楽しみにしていた海まで私は歩いてみた。途中、違法建築ではないのかと思う住宅が立ち並び、年老いた老人が自動販売機の前で座り込み酒を飲んでいる。川崎のこの地区は、韓国の文化と、セメント通りから漂う肉の焼ける香りが異世界を演出している。
辿り着いた川崎の海は八戸の海とは違い、人々の欲望が溶け込んだ灰色の海に見えた。そんな灰色の海だけど、私の心には泰孝との愛を表す赤い色のハートが浮かんでいる。
灰色の世界に赤が合う。いや灰色だからこそ赤が必要なんだ。この都会で生きるために。
海の帰りにコリアンタウンの中にある韓国食材店を見つけたので寄ってみると、泰孝の好きなキムチが置いてあったので、夕方に引っ越して来る泰孝に食べさせようと1つ購入してみた。
キムチの入った袋を揺らし鼻歌を歌いながら家まで戻る私は幸せな女そのもので、今夜から始まる2人の生活を心から楽しみにしていた。
だが、夕方になり櫻木に電話をしても繋がらず、夜になっても引っ越してくるどころか連絡さえない。
すき焼きをしようとした、あの夜と同じだ…
私の不安はとめどめなく溢れ続け、知らないこの街でどうやって1人で生きていけば良いのかと不安が膨らみ、悪い事ばかり心に思い浮かんで涙が溢れた。
その時、電話が鳴り、慌てて携帯を見ると櫻木の名前の表示に安堵し、涙が止まらない。
「もしもし!泰孝どこにいるの?」
「あのさ、そっち行けねえわ」
「どういう事?」
「俺、結構大きな会社から来ないかって話しあんのよ。マンションも社宅でくれるって話しでな。そこ住みたいから純子は連れて行けないわ。そういう事なんだよな」
「それはマンションに住みたいから私と別れるって事なの?なんなのそれ」
「だって住むとこ大事じゃん?この際だから正直に言うけど、純子じゃ俺の保険にならないわけ。俺にもし何かあったら、お前の収入や実家の感じでは俺のために大した力になれないでしょう。それも大きな理由だな」
「どうして保険が必要なの?これから2人で築き上げていけば良いじゃない!なぜ人を愛する事に保険なんて言葉が出るの?信じられない」
「別に信じられなくて良いですよ。それが俺だから。そういうわけで引っ越しはしないから悪いな」
「もう来ないって事?」
「それはわからないなぁ。気が向いたら行くかも」
「…………」
この人に何を言ってももう無駄だ、話しもしたくない。無言で携帯を切り、しばらく放心していたが、気づくとさっきまで溢れ続けていた涙は渇いている。自然と頭の中で、これからの事を考え始めた。とにかく早く仕事を見つける事だけを考えよう。櫻木は居なくなったが、私はこの川崎で生きて行かなけば。東京で部屋を借りるお金の余裕は無い。ここまで来たらもう後戻りは出来ない。なんとかしなければ。
ここまで女に残酷な男は、今まで見た事も聞いた事もない。金を奪うホストなんて可愛いものだ。櫻木は時間や生活を奪い女の人生を破壊する。
私は別れを受け入れたし、あんな勝手な男に未練はない。ただ、どうしても知りたい事がひとつだけある。何故、あんな人間に成長したのか、櫻木の過去に何があったのか、それだけは最後に知っておきたい。
ここまでボロボロにされた私には、櫻木を知る権利があるはずだ。
必死に櫻木との会話を振り返り、確か出会った頃、bourbonというBARにボトルがあるから飲んでも良いとか言っていた事を思い出した。
私は部屋着を脱ぎ捨て風呂場へ駆け込み急いでシャワーを浴びた。
「bourbonへ行こうじゃないの。
ここまで馬鹿にされて泣いてばかりいられない。絶対に、あの人の正体を掴んでやる」
続く
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