殴りタイピング 現代国語の授業中にて
最近わかってきたきがする
悟りという言葉を軽く使ってはいけないと思うけれど、そんな気分。
物事がわかりやすくクリアに見えてきた気がする tings seems clear
ここらでいっちょ、言葉にしてまとめておかなきゃと思ったから書きます
数学者岡さんの動画見て納得したというかやっぱり自分の生き方は最高だなと思えたの
動画では岡さんは情緒を大事にしなさいっていうことだった。日本人は本来自然に対して美しさを見出してきたし、人に対して思いやりの心を持つことに対して美徳を見出してきた。けれど最近はすべてのことに対して合理的に考える人が多すぎるのではないかということだった。最近っていっても岡さんがこの発言をしているのはかなり昔のことだと思うから、ずっと前から言われているということだよね。例えば飲み会をしている人はお金と時間の無駄という強い言葉に支配されて、飲み会に行っている人は馬鹿という偏った考えをもつ。例えば、ゲームなんてやってもなんもお金稼げないじゃん、時間の無駄だからやらない、といった考えを持つ。すべてのことに対して意味と利益を見出そうとしているのだ。こういった人は自分の行動をすべてお金で計算して行動することになるだろう。だから、この人にとってはただ海の波を見たり、芝生の寝っ転がって何もしないで過ごすということはもちろん無駄な行為と化す。波が作り出す泡の出来方や芝生の匂い、柔らかい土の感覚の心地よさに気づかない。気づいたとしてもそこに美しさや幸せを感じない。私はそのような生き方は寂しいと思う。せっかくこんな良い惑星に生まれてきたのにね。
岡さんがすべてのことに意味を問いかけ、合理的な判断をし続けていると価値観が凝り固まってしまい自由な考え方が出来なくなってしまうと言っていた。そして合理的を追い求めると最終的にはとっとと金を稼いでさっさと死ぬということにたどり着くという考えを面白いと思った。
じゃあ合理的なんてもういいじゃん気にしなくていいじゃんって思っちゃった。
もちろん合理的な判断が求められる場面があるのもわかる。けど、最終的に死なずにまた大切な人と芝生で横になれたら別に良いやんって思った。
もっと感情に素直になって、人の意見なんて聞かないレベルで別に良くて、
先生親の言うことが正解なわけないから一人の人として接して良いし、周りの意見なんてなおさら聞かなくていいし、自分で経験して学べば良いやんと気づいた。
模試の点数なんて気にしなくてよいよ
賢さがテストで決まるわけがないよ
わたしには学問を楽しめる心があるし、勉強も楽しめる。
ただ高校背の今は学校が課してくる量が多すぎて嫌になってしまうよね。
日本の教育の問題点をさいきんとてもよく感じる。
ただ言われたことを要領よくこなせる人が賢いという認識をつくるシステムをつくっていると感じる。
自己肯定感にもつながっていると思う。
日本の教師不足も関わってくると思うけど、もっと教師の質を確実に確保するべきだと思う。学校でしか過ごしてきてない大人が子供に良い見本をみせることが果たして本当にできるのだろうか。三人に一人くらいの確率で少し変わった人生を過ごしてきた人が先生をしている、そんな学校はどうだろうか
子供には自分は賢くないからダメなんだという単純なものさしで考えてほしくないそんなもので人の価値は決まるわけがないし、ありきたりな言葉になるけれど自分らしくいてほしい。
最近感じるようになったことが、義務教育は確実に社会を生き抜くために必要な知識を教えてくれるがオーバーワークなものが多すぎるということ。そして、それを器用にこなせる人だけが大学に行けるという仕組み。ある意味平等ともいえるが、もうそろそろ仕組みを変えるべきではないだろうか
成田さんの考え方が面白いなと思った。世間の人がネガティブだと思い込んでいることからポジティブな部分をすくいあげる反面、世間が良しとしていることからは問題点を見つけ出し、話す。ある意味ゲームのmasterみたいな考え方だと思う。しかしこういう考え方をすることが出来ると、世間一般論をかまえて聞き、場合によっては聞き流すことが出来る。大切な考え方やなあと思う。
これは、、、現代国語のときに書いた日記です
先週の月曜日かな?書いた