語り尽くされてても語りたいこと:小沢健二さん

 小沢健二さん(普段、小沢さんのことを誰かと話すときや頭の中では、オザケンがね!オザケンのあの曲がやばい!とか、近所の友達かって勢いで呼んでいるので、敬意と好意を込め、オザケンと呼ばせていただきます)の"刹那"というアルバムと"我ら、時"というアルバムを、その日の気分で、交互に聞き続けていたぼくはある日、職場で筋金入りのオザケンファンに出会った。その方は、若き日からオザケンのファンだった。その方は、リアルタイムでオザケンを追いかけ続けていた。フリッパーズ・ギターの解散から、オザケンがソロ・デビューしてからの今まで。


 ぼくは、当時、オザケンのパーソナルな面とかアーティストとしての歴史とか知らず、音楽のみを聞き、オザケンの作り出す知的で遊び心たっぷりで前向きで人間のダークサイドを歌うことを忘れず、強く生きようとしていて、愛しい誰かを思い、クレバーなだけじゃなくて、ちょっぴり泥臭いオザケン、そんなことを感じていた。

 "刹那"というアルバム の中に溢れる曲たちはきらきらかがやき、胸に来る。メロディに乗る歌詞の五感が気持ちよくて、つい口ずさみたくなる。どこまで計算されているかはわからんが、メロディと歌詞のぴったりマッチしてる感じが、何度も曲を聞きたくなる理由だと思った。"流星ビバップ"は聞いていて、心身騒ぐ。ステップを踏みたくなる。そして、口ずさむ。

 "我ら、時"というアルバムは3枚組で、2010年におこなわれたLIVEが収録されている。曲と朗読があり、聞いていて、読書をしているような感覚になった。オザケンが普段生活をする中で味わったことや感じたことや考えたことが朗読として昇華され、聞き手は新たな視点と共感を感じ思考を巡らせるだろう。ぼくは、はじめてアルバムを通して聞いたとき、目から鱗の連続だった。まず、朗読が入ったLIVE自体はじめてだった。朗読があることで、曲の解釈が変化するし、新たな意味を帯びる。同じ曲なのに、今まで何度も聞いてきた曲なのに、新鮮。何より、オザケンの声にあたたかみがより加わったというか、ふくらみ!?、時を経て、厚みが増しているような気がした。


 職場で出会ったオザケンファン(以下:猫田さん)の方とは、音楽の話をしている際に、お互いオザケンが好きであることがわかり、意気投合した。猫田さんは、90年代のオザケンをリアルタイムで見ており、その話をたくさん聞かせてくれた。かなり貴重な話だった。あの熱狂("LIFE"という名盤が発売され、オザケンはテレビに出まくり、ナイスな曲をリリースしまくる)を味わえたなんて、なんて羨ましい。猫田さんは、オザケンが書いた、一般では流通していない(あれはファンクラブのみの販売だったのかな!?)本を数冊持っており、借していただき、読んだ。まず、本のデザインがすんばらしく、物体として見惚れた。借りた本を机に置き、様々な角度から眺め、いいね!と何度も小さく呟いた。"流動体について"など、当時最新のオザケン音源まで貸していただき、聞きまくった。"流動体について"を聞いたとき、言葉が、メロディーを超えたと思った。歌詞が、語っている。メロディーの上で、言葉が全力疾走で走ったり、空を見上げて物思いにふけたりしていた。メロディーという果てしない道の上で、言葉はたしかに生きていた。間奏のギターソロに聞き惚れた。猫田さんは、オザケンのLIVEにも何度も参加していた。

 そんなときオザケンがLIVEを行うことが分かり、チケット抽選に応募した。すると、2020年6/4大阪フェスティバルホールのオザケンのLIVEチケットを入手できた。狂喜乱舞した。猫田さんは別の日のLIVEチケットを入手していた。職場で、猫田さんに会うと、高確率でオザケンの話になり、仕事にほんの少し支障をきたした。話がとまらないんだもの。てへっ。

 「So kakkoii 宇宙」というNEWアルバムを購入し、聞き込んだ。メロディーの中に言葉がかなり入っていて、それがやはり、語感がいい。違和感を覚えるところもあるが、それが気になり、また曲を聞き、結局ハマってる。歌詞の内容や、過去の発言や文章から、どうしても知的なイメージをオザケンに持ってしまうが、あくまで個人的に、ぼくはそこに追加したいことがある、それは、オザケンは根性が半端ないってこと。曲作りのみならず、グッズや本のデザイン、自身の発言内容、などなどの細部へのこだわりが感じられ、貫き通している。アーティストであり、職人。妥協がない。チャーミングな笑顔の裏には、音楽への愛、妥協を許さない頑固さだとかあったんじゃないかと、ぼくは思う。だからかどうかわからないが、オザケンには日本で活動していない空白期間と呼ばれる期間がある。その間は音源の発表はほぼなく、動向も不明。その詳細が気になる方は宇野維正さん著"小沢健二の帰還"を読んでみてください。かなり興味深い内容です。

 

 オザケンの大阪でのLIVEは、コロナの影響で、延期になった。2021年6/11となったが、そこから、半年経った頃、またしても延期となり、2022年6/16となり、2年越しとなった。同じ会場でLIVEをするとオザケンが発表した際は、粋なことをしてくれるね、ありがとうと叫んだ。その2年の間に、猫田さんは突然仕事をやめ、連絡をとることもなくなった。猫田さんは、上司と反りが合わず、ずっと悩んでいた。相談に乗っている職員もいた。ぼくは詳細は知らず、敢えて触れず、音楽の話を猫田さんとたくさんした。フリッパーズ・ギターの話や、フリッパーズ解散後のオザケンと小山田圭吾さんのそれぞれの活動についての話は尽きなかった。ぼくはオザケンを聞くたびに、猫田さんを思い出す。猫田さんは、今もきっとオザケンを聞いているはずだ。

 2年越しのオザケンのLIVEは、想像を遥かに超える高揚感と愛に溢れていた。白く染めた髪の毛のオザケンが遠くに見えた。ギターを掻き鳴らすオザケン、オーケストラを先導するオザケン、もちろん朗読あり、音を言葉を浴びた。演奏中に、オザケンが「離脱!」 と言うと、曲のテンポがゆっーくりになり、「戻る!」と言うとテンポが元にもどるという技が炸裂していた。空間がねじれ、ぼくは、波間を漂う浮舟になったような気分になった。曲のテンポが遅くなり、曲の細部が浮き彫りになった。そこに心地よさがあった。神は細部に宿るって歌詞があったよね。オザケンのLIVEは音楽体験だけでなく、やっぱり読書してる感覚になる。思考が巡る。"我ら、時"を聞いているときもそうだったが、LIVEという生の空間だと、より強くそう思った。LIVE終了後、大阪の街を歩くと、遠くの空の雲間から月が見え隠れしていた。猫田さんも、どこかの会場で、2年越しのオザケンのLIVEを味わっているだろうか。
 ありがとう、猫田さん。どうかお元気で。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集