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ボードゲーマーに贈る「八十日間世界一周」の歴史的背景

ボードゲーム「八十日間世界一周」とは

 ホビージャパン/仏IELLOより発売されているボードゲーム「八十日間世界一周(原題:Around the World in 80 Days)」は、世界一周ルートに見立てた80マスを進んでいくちょっと変わった双六です。

 タイトルの「八十日間世界一周」とは、フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの同名の冒険小説で、19世紀末のロンドンで「インフラが整備され80日で世界一周できるようになった」と言う新聞記事を見た主人公が、その記事の通り実際に80日で世界一周できるか否かに全財産を賭け、えん罪で警察に追われつつ時間制限付きの世界一周旅行にチャレンジする話だそうです。
 この小説は1872年に新聞小説として発表され、翌1873年には単行本化、更に戯曲化され1874年にパリで初演、人気を博したようです。小説に触発されて、実際に世界一周に挑戦する者まで現れ、1889年にはこの小説に基づいたアメリカの雑誌企画で発案者の女性記者ネリー・ブライが72日で世界一周したそうです。対抗して別の雑誌の女性記者エリザベス・ビスランドも同年に世界一周したそうですが、こちらは76日かかったとか。

 ちなみにボードゲームとしては1979年のドイツゲーム大賞受賞作「ウサギとハリネズミ」のリメイクで、簡単に言うとサイコロではなく手札を使う双六です。
 このタイトルの「ウサギとハリネズミ」は言わばドイツ版(と言うかグリム兄弟版)「ウサギとカメ」と言った話で、足の遅いハリネズミ(カメ)でも知恵を絞ればウサギに勝てますよ、と言った意味でモチーフになったんでしょう。
 この「ウサギとハリネズミ」を2016年にリメイクしたものが「八十日間世界一周」になるのですが、元となった「ウサギとハリネズミ」は今もなお独ラベンスバーガーから発売されており、恐らく版権の関係でそのままだと発売できず、そこでモチーフを変えたものと思われます。

 と言う訳で、今回はモチーフとなった小説『八十日間世界一周』が執筆されるに至った「世界一周」に関する歴史的背景を見ていきましょう。 

地球を回れ!

 まず古代、大地は象や亀や華や樹木の上に存在する平板と考えられていました。日本神話の場合は、天地が分かれた後も地は混沌としていたのでイザナギとイザナミが天沼矛あめのぬぼこで掻き混ぜてオノゴロ島を作った訳ですが、どのみち「大地が球形」とは考えられていませんでした。単純に「大地と言う球」が人間と比して大きすぎて球形だと考えづらかったのが原因でしょう。
 それでも、古代ギリシア時代にプトレマイオスが著作『地理誌』にて地球球体説を唱えており、その思想を継いだイスラーム世界では9世紀の時点で地球の大きさをほぼ正確に計算していました(この辺りの詳細は「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」〈南アメリカ編〉にて)。

 地球一周と言う概念が生まれたのは15世紀、いわゆる大航海時代の最初期です。オスマン帝国の台頭によりシルクロードが断絶し、地中海貿易の恩恵薄いポルトガルとスペインが海路でインド(より正確には香辛料の産地である「香料諸島」ことインドネシアのモルッカ諸島)を目指すのですが、先行したポルトガルは南アフリカ南端の喜望峰経由で東回りの、出遅れたスペインは大西洋を越えて西回りの航路を取ります。

 このとき西廻り航路を発案したのはイタリア人探検家クリストファー・コロンブスで、スペインに雇われた彼が中米カリブ海に到達したのが、1492年のこと。彼は当時、自身が到達した陸地を東アジア東端の何処かにある半島だと考えていましたが、周辺を探検しても本来の目的地である「香料諸島」へは到達できず、現地の植民地支配に失敗しインディアンを大量虐殺、肝心の香料も他の交易品も得られなかったためスペインから冷遇されるようになり、「香料諸島」に到達できないまま1506年に病死します。

 一方のポルトガルはいち早くインド航路を開拓し、1509年、アラビア海を支配するオスマン帝国との海戦に勝利します(ディーウ沖海戦)が、このポルトガル軍の中には、後に人類初の地球一周を達成するフェルディナンド・マゼランが加わっていました。
 ディーウ沖海戦で勝利したポルトガルは、インド航路の安全を確保し、1511年にはマゼランの従兄弟であるフランシスコ・セラーンがモルッカ諸島に到達、1512年には「香料諸島」を発見し、そのことをマゼランに手紙で知らせています。
 この知らせを受けてマゼランは1515年、当時のポルトガル王マヌエルにモルッカ諸島への派遣を願い出ますが却下され、失職。1517年になり、大西洋越えの西廻り航路を開拓できる航海者を探していたスペインに雇われることになります。しかし、マゼランを推薦したスペイン貴族ロドリゲス・デ・フォンセカと御用商人クリストバル・デ・アロは、「香料諸島」がもたらす莫大な利益だけが目当てで、そのため派遣隊からマゼランのスタッフを排除し自分たちのスタッフを入れようとしており、マゼランとの仲はあまりよろしくなかったようです。
 更にポルトガルも、かつてはポルトガル王妃に仕える小姓であったマゼランがポルトガルの利益を脅かすスペインの西廻り航路開拓に協力していることを快く思わず、マゼランの暗殺や航海準備の妨害をたびたび試みていたとか。
 それでもマゼランは艦隊5隻265名を引き連れて1519年8月にスペインのセビリアを出発、途中サンルーカル・デ・バラメーダ港に立ち寄って航海の準備を整えると、大西洋を南西に横断して同年12月にリオ・デ・ジャネイロ付近に到達。西へ抜ける海路を探して海岸沿いに南下し、1隻を失いますが、1520年10月、遂に西へ抜ける海峡を発見します。現在の南アメリカ南端であるマゼラン海峡です。このとき、4隻のうち1隻とはぐれており、はぐれた1隻は勝手にスペインに帰国していたのですが、マゼランは再び合流できると信じながら進んだため、海峡を抜けるのに1ヶ月ほどかかったそうです。
 その後、マゼランの艦隊3隻は太平洋を北西に進みますが、その間彼らは飢えと栄養失調、病気に苦しみます。前述のはぐれた1隻が帰国した理由がまさにそれで、マゼラン艦隊は計画では十分な食糧を用意していたのですが、手違いによって食糧不足となっていたことに出発後気づいたのです(実際のところは分かりませんが、あるいはポルトガルの妨害工作も影響していたのかも知れません)。彼らは太平洋を西へ進む間、島はいくつも見つけましたが、そこで食糧を見つけることができず、船員たちは船に紛れ込んだネズミに金貨半額と言う高値を付けるほどだったとか……

 そうして1521年3月、マゼラン艦隊は遂に有人島、マリアナ諸島のグアム島に到達します。現在では記念碑も建っています。

 しかしグアム島民に装備品を盗まれたりしたため、怒ったマゼランは島民を殺して西へ向かい、一週間後フィリピン諸島へ到着しました。
 マゼラン艦隊は、グアム島での経験から当初フィリピン諸島の現地民を警戒していましたが、「文化的」な歓待を受け、また引き連れていたマレー人奴隷を通訳として交流を持てたこともあってか、現地民をキリスト教へ改宗させ、やがて自分たちへの服従を強要するようになっていきます。
 マゼランが、従兄弟のセラーンが待つ「香料諸島」へ向かわず、フィリピン諸島への滞在を続け支配者になろうとした理由は分かりません。ただ、彼は元々生真面目で清廉潔白な軍人気質の人物で、ポルトガル王と決裂する前はいくつもの戦闘に参加し瀕死の重傷を負ったこともあるそうです。支配欲や征服欲が強かったのでしょうか。また彼をスペインに推薦したフォンセカとアロが香辛料貿易による利潤を求めていたことに対し、彼は利潤に興味がなかったか、フォンセカとアロのスタッフと不仲だったせいでしょうか。あるいは、マゼラン海峡ではぐれた1隻が追ってくると信じて、彼らを待っていたのかも知れません。従兄弟のセラーンがいる「香料諸島」は既にポルトガルの影響下にあったため、スペインのために付近に拠点を作りたかったのかも知れません。
 何にしても滞在し続けたマゼランとフィリピン諸島の現地民との仲は悪化し、彼はたびたび実力行使するようになっていました。1521年4月、マゼランは部下を引き連れ、彼に抵抗するフィリピン諸島のマクタン島の王の一人ラプ=ラプ王の討伐に向かいますが、防具を付けていない脚に集中攻撃を受けたことで、マゼランは戦死します。そして艦隊の幹部も次々と現地民に殺されたそうです。マゼラン地球一周してないじゃん!?
 ちなみにマゼランが戦死したフィリピン諸島マクタン島の戦場には、ラプ=ラプ王の像と記念碑が建っています。現地民にとっては“侵略者”であるマゼランを退けた英雄ですからね。

 マゼランと現地民の仲を取り持った通訳は、マゼランに従ってマクタン島民と戦い負傷しましたが、マゼランの戦死後、艦隊幹部と共に現地の王との仲を取り持つ宴会に参加します。このとき招かれた艦隊幹部は全員が殺されたそうで、通訳も消息不明となったそうです。生き残った艦隊員は後に、奴隷だった通訳がマゼランの死後も解放されなかったことを恨んで現地の王と共に艦隊幹部をたばかったのではないか、と推測しています。マゼランは生前から、自身の死後は通訳を自由の身にし、財産も与える遺言を残していましたが、マゼランの後を継いだ親戚の指揮官はそれを認めなかったそうで。
 この通訳をした奴隷は「マラッカのエンリケ」と呼ばれており、東南アジアで話されているマレー語圏出身であることは確実ですが、出身地が何処かはハッキリと分かっていないようです。なので彼を「マレー語圏を離れて西へ向かい、マレー語が通じる地域へ戻ってきた」と言う意味では世界一周したと見做すこともできますが、フィリピン諸島はマラッカよりもやや東に位置し、マレー語圏と言うよりは「マレー語を解する人間がいる地域」程度のものだそうで、彼が故郷へ戻ることができたのかも分からず、エンリケを世界一周者と見做すかどうかは意見が分かれるそうです。

 こうして艦隊長だったマゼランを始め多くの人員を失った艦隊は、船を2隻に減らしてフィリピン諸島を出立。1521年11月に遂に「香料諸島」へ到着しますが、マゼランの従兄弟のセラーンも既にマゼランと同じ頃に亡くなっていたそうです。原因はハッキリ分かっていませんが、戦死とも毒殺とも言われています。
 そして「香料諸島」で念願の香辛料を手に入れたマゼラン艦隊ですが、1隻が浸水したためビクトリア号1隻のみで出発。しかし帰路は既にポルトガルの勢力圏だったため、スペインの支援を受けていたマゼラン艦隊の生き残りは補給を受けることができず、多くの死者を出しながらも1522年9月にスペインへ到着。ここに世界一周を成し遂げました。
 このとき航海の最初から参加していたメンバーは18名。艦隊長を務めたバスク人商人フアン・セバスティアン・エルカーノ、通訳にして地図製作者であり航海中に欠かさず日記を付け続けたイタリア人アントニオ・ピガフェッタ、航海日誌を担当していた航海士フランシスコ・アルボなど、生還した船員リストは現在でも残っており、彼らは持ち帰った香辛料のおかげでかなりの財産を得たようです。また、この18名の中で最初から最後まで一貫してビクトリア号に乗船していたのは、見習い水夫2名だけだったとか。出発時には265名だったので、マゼラン艦隊の世界一周がどれだけ過酷な船旅だったかうかがい知ることができます。
 また、「香料諸島」で浸水したトリニダード号の修理のために残った船員は、修理を完了させ4ヶ月後に出発したものの、嵐に遭った後ポルトガルに拘束されます。最終的には船長など4人が1526年にポルトガルへ送られ、彼らも少し遅れますが世界一周を果たしたと言えるでしょう。
 ちなみにエルカーノは1525年、スペイン貴族フランシスコ・ホセ・ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ率いる遠征隊に参加し、二度目の世界一周に挑戦しますが、太平洋上で壊血病と栄養失調により亡くなったそうです。
 またピガフェッタはイタリアに帰郷後、当時のローマ教皇クレメンス7世に招かれ航海での体験を話すと、体験記の出版を勧められたそうで、彼の遺した体験記はマゼラン艦隊の軌跡を知ることのできる貴重な歴史的資料となりました。クレメンス7世グッジョブ。

 と言う訳で、フェルディナンド・マゼラン自身は地球一周を果たせなかったものの、マゼランがいなければ彼の配下が地球一周の旅に出立することもなかっただろうことを考えると、やはりマゼランは地球一周の旅に(間接的であれ)功績のあった人物と言ってよいと思います。

冒険から観光へ

 と言う訳で史上初の世界一周は船旅でした。現代でこそ「船旅」と言えばのんびり優雅なイメージですが、鉄道や高速道路などない時代は、陸路より水路の方が遥かに速く長距離移動ができ、だからこそ15世紀半ばから17世紀半ばにかけて、世界を大きく変える大「航海」時代が到来した訳で。いえ、船旅で初めて世界一周を達成したからこそ、多くの者が追従して大航海時代が開幕したと言うべきでしょうね。

 その後、マゼラン艦隊のもたらした情報を基に、彼らに続いて世界一周を達成する者も現れ、16世紀末にはイングランドのフランシス・ドレイク、18世紀後半にはグレートブリテン王国のジェームズ・クックと言った著名な航海者も世界一周を達成しています。特にドレイクは、出発時に船長を務めていた人物の中では最初の生還者だそうで、彼が持ち帰った香辛料の価格は当時のイングランドの国家予算を超え、イングランド王室はこの臨時収入で当時抱えていた債務を全て清算したとか。そりゃ地球の裏側を目指そうと言う気にもなるわな。
 こうしてヨーロッパ人が各地の秘境へ足を延ばし、17世紀半ば、地球の大半の地域へ到達したことで、大航海時代は終焉を迎えました。

 そして18世紀初頭、実用に耐え得る蒸気機関の発明を契機に、大型船が帆船から蒸気船へと発達し、更に19世紀初頭に蒸気機関車が発明されると、世界の距離は一挙に縮まります。水路を行く帆船と蒸気船の、そして陸路を行く馬車と鉄道の、移動速度なんて比べるべくもないですからね。
 大西洋航路(1819年)や太平洋航路(1867年)の定期便が就航されるようになり、更に1869年5月にアメリカ大陸横断鉄道が、同年11月にスエズ運河が開通したことで移動経路が最適化され、世界一周は「冒険旅行」から「観光旅行」へと変貌を遂げます。それなりのお金と時間さえあれば、誰もが世界一周できるようになったのです。

 1872年には、イギリスの実業家トーマス・クックにより、世界初の世界一周ツアーが敢行されます。この世界一周ツアーは222日掛かったそうです。
 マゼラン艦隊は1519年8月に出発、1522年9月に帰還と世界一周するのに3年余りの歳月を掛けましたが、それを思うと222日は随分速いですね。文明の発達は偉大です。また、小説『八十日間世界一周』はこの世界一周ツアーに着想を得て、このツアーの最中に出版されています。
 また前述の通り、1889年に世界一周したネリー・ブライが掛けた日数は72日です。ちなみにブライの記録は、彼女の挑戦に触発されたアメリカ人実業家ジョージ・フランシス・トレインによって、僅か数ヶ月後、1890年のうちに破られました。このときトレインは62日で世界一周し、更に記録を縮めるため再挑戦し、3度目の世界一周は60日で達成したそうです。同様に、その後もジョージ・グリフィス等、「どれだけ速く世界一周できるか」にチャレンジする人々は後が絶たなかったようで。今風に言えば「世界一周RTA(Real Time Attack)」と言ったところでしょう。

 その後は1903年のライト兄弟を発端とする飛行機の発達と言った技術の進歩もあり、世界一周に掛かる時間も大幅短縮されました。
 例えば羽田空港からイギリスのヒースロー空港への直行便は(解説サイトにもよりますが)2024年8月現在、約15時間だそうで、世界一周に80日掛かっていた時代からたった100年でここまで時間短縮したのは凄いですね。
 ただ高速移動の手段はごく限られているので、現代では世界一周RTAにあまり意味がないかも知れません。

現代における「世界一周」

 2024年8月現在では条件さえ整えれば誰もが安全に世界一周できるようになりましたが、そのため逆に、世界一周に大きな意味を持たせることが難しくなっているとも言えます。
 そもそも、何をもって「世界一周」と定義するか、つまり「世界一周」の基準も統一されていません。例えば「全ての子午線を通過する」だけだと、南極点の周囲1mくらいをぐるり回るだけでも「世界一周」できてしまうからです。赤道が約4万75km、子午線が約4万9kmなので、せめてそれに近い距離を移動してほしいところです。
 「“地球の裏側”を通る」「赤道上を通る」などの条件も考えられますが、多くの航空会社が発券している「世界一周航空券」の場合、ジェット気流を利用していることが多く、ジェット気流は赤道を通過しません(ジェット気流は地球の自転により発生するため、赤道を境に北半球と南半球で流れが異なります)し、そうなれば当然“地球の裏側”も通りません。何を以て「世界一周」と定義すべきか、実に難しいところです。

 一定の基準にのっとった記録、と言う意味では様々な「世界一」を収録する書籍「ギネス世界記録(いわゆるギネスブック)」が分かりやすいでしょう。ギネスに載るには、ギネスが定める条件下で、かつギネスに申請しその記録を認定されなければいけません。
 ギネス2006年版に掲載されたガイドラインによると、「人力による世界一周」の条件は「距離36,787.559 km(北回帰線の長さ)以上」で「赤道を通過する」、「出発地点と完全に同じ場所に戻ってくる」など8つの条件があるそうです。これらのガイドラインは、ギネスに自身の記録を申請したい人が「どんな記録を申請したいか」選択すると詳細が見られるようです。
 ちなみにギネスが認定する、個人が人力のみで達成した世界一周の最速記録は、2007年7月から2012年7月にかけてトルコ人男性によって記録された5年11日とのこと。他にもギネスが認定する「世界一周」の記録は、史上初の記録や気球を使った記録、バイクを使った最年少記録など、意外と多くあります。知恵を絞ってギネスが認定するような条件を考え付き達成できれば、もしかしたらギネスに名前が載るかも?
 なお2008年12月から2011年1月にかけてアースマラソンを敢行した間寛平さんの場合、ギネスが定める条件のひとつである「赤道上を通過する」を満たしておらず、ギネス的には世界一周と認定されないとか。

 なお、世界一周とは微妙に定義が異なりますが、7大陸(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、南極)全てに立ち寄った旅行の最短記録は、2022年12月に2人のインド人男性によって記録された約73時間(3日1時間)だそうです。「時間timeの単位が日じゃなくて時間hour」ですよ奥さん(誰だ)。「80日」の約1/26と、こちらも技術の進歩を感じずにはいられません。何しろマゼラン艦隊のメンバーが「地球一周」を達成した16世紀、南極大陸は存在すら知られていなかった土地ですからね。


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