ボードゲーマーに贈る「チューリップ・バブル」の歴史的背景
ボードゲーム「チューリップ・バブル」とは
台湾Moaideas Game Designより発売されているボードゲーム「チューリップ・バブル(原題:Tulip Bubble)」は、価格高騰したチューリップを先物取引で売買し、バブル経済が弾ける前に利益を上げる投機ゲームです。
本作は元々日本の同人サークル「ぐうのね ~Sounds Good~」さんより2015年に頒布されたインディーズゲームでしたが、それをMoaideasが商業化し英語版、台湾版、そして日本語版を作ってくださいました。
日本産のインディーズボードゲームが海外で商業販売されることは、近年間々あることですが(カナイセイジさんの「ラブレター」やSaashi&Saashiさんの「コーヒーロースター」など)、大抵は欧米の出版社なので商業化に際して日本語版まで発売してくださるところは稀で、そういう意味で自社ゲームを積極的に日本語化してくださる台湾の出版社には感謝の念に堪えません。いずれはMoaideasが発売している他の歴史モチーフなボードゲームについても記事を書きたいですね。
さて本作のモチーフになった「チューリップ・バブル」とは、17世紀前半にオランダで実際に起きた一連のチューリップの先物取引であり、記録として確認できる最初のバブル経済とされています。
と言う訳で今回は、この歴史的なバブル経済が何故起きたのか、を見ていきたいと思います。
オランダとチューリップ
まず我々日本人にとって、チューリップと言えばオランダをイメージすることが多いでしょう。水車の周囲に広がるチューリップ畑なんて、如何にもオランダと言う感じがします。でも私は九州人なので、オランダと言うより長崎のハウステンボスの風景ではないかと言う気もしないではないです。
チューリップの原産地は実はヨーロッパではなく地中海東岸、西アジアはトルコのアナトリア地方とされています。周辺地域、中東や西アジアでは古い時代から野生のチューリップが見られたようですが、栽培が始まったのは10世紀頃のペルシャと考えられています。この辺りは明確な記録がないようで、あまりハッキリしたことは分かっていないみたいです。ただ当時の建物の壁画などに、現在では失われた種のチューリップが見られるそうです。
13世紀末にオスマン帝国が興ると、チューリップの栽培が隆盛するようになり、交配や変異がしやすいチューリップの性質から多様な園芸品種が作られたようです。
そんなオスマン帝国に、16世紀半ば頃、神聖ローマ帝国大使としてフランドル(ベルギー・オランダ・フランスに跨る地域)出身のオージェ・ギスラン・ド・ブスベックが赴任したことが、チューリップ・バブルの発端となります。ブスベックは当時のヨーロッパにない珍品の収集に熱心で、赴任中、神聖ローマ帝国の前身であり、かつて近隣地域を支配していた古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの生涯について記された「アンキューラ記念碑」を発見すると言う偉業を成した他、それまでヨーロッパになかった様々な植物の球根や種子をウィーンに送っており、チューリップの球根も、大使として赴任した1554年にウィーンに送ったそうです。
この頃、チューリップの球根をヨーロッパに送った記録は他にもあるそうですが、内容的にチューリップがヒヤシンスと混同されている節があり、どうやら当時のヨーロッパではチューリップとヒヤシンスとが同種の植物だと思われていたようなのです。実際にヒヤシンスも地中海東岸地域が原産で、同時期にオスマン帝国で盛んに栽培されヨーロッパに齎されたとか。確かに先ほど解説したチューリップのヨーロッパ伝来まんまですね。だからこそ、当時のチューリップ伝来について明確なことが分からくなっているのかも知れません。
また、現在でこそウィーンは「音楽の都」と言うイメージですが、当時は植物採集と植物学研究の中心地でもあったそうで、ウィーンに宮殿を構えていたハプスブルク家(当時は神聖ローマ帝国の皇帝家でもありました)には数多くの貴重な動植物がコレクションされていたとか。それらの研究のために多くの学者も雇われており、その中にはブスベックと同じフランドル出身の植物学者シャルル・ド・レクリューズ(オランダ語発音のカロルス・クルシウスとしても知られています)もいました。レクリューズの許にもブスベックからチューリップの球根が送られ、1573年にはウィーン帝国植物園(が何処にあって現在どうなっているのかはよく分かりませんでした)に植えているそうです。
約20年後の1592年、この頃には既に植物学者として広く知られていたレクリューズがオランダのライデン大学に招かれ、1593年10月に教授に就任しライデン大学植物園の設立の陣頭指揮を執ることになります。ライデン大学は1575年に創立されましたが、当時あった他の多くの大学とは異なり、医学教育用の植物園や薬草園が設置されていませんでした。そこで植物園設置の要望書が市長に送られ、承認されたのが1590年。こうして1592年、招かれたレクリューズは、この植物園に様々な植物を植えさせ、その中にはチューリップもあったと言います。またレクリューズはライデン大学植物園だけでなく、個人的な庭にもチューリップを植えたそうです。
レクリューズがチューリップを持ち込んで間もなく、オランダでチューリップは人気の花となったようです。彼が個人的に植えたチューリップ球根は、1596年と1598年に合わせて100個以上も盗まれたそうで、植えては盗まれ、植えては盗まれを繰り返した結果、レクリューズはチューリップを植えるのを止めてしまったと言います……つらい。
ちなみに当時のオランダ(ネーデルラント)はスペインの一部でしたが、オランダに対して強権的だったスペイン国王フェリペ2世への反発から独立の機運が高まっており、当時フェリペ2世に異端視され反目していたイングランドの後援もあって、1581年にスペインの統治を拒否し自治を始めて間もない時期でした。
時間軸は前後しますが、スペイン国王フェリペ2世がポルトガル王位も兼任することになりイベリア連合と化したのが1580年のこと。これにより15世紀半ばに大航海時代の端緒を開いたポルトガルとスペインの「競争」が事実上終結し、またイングランドとフランスでようやく絶対王権が確立・安定し北米やアジアへ進出し始めていた時期でもありました。それまで香料諸島を独占していたポルトガルがイベリア連合の影響もあって衰退し始め、栄華を誇ったスペインの無敵艦隊が1588年のアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗れ「無敵」ではなくなった頃で(と言ってもその後も割と強かったんですが)、そこへ自治を始めたオランダが台頭してきた形になります。
ちなみにポルトガル人による日本への鉄砲伝来は1541年から1544年頃(諸説あり)、スペイン人であるフランシスコ・ザビエル神父の日本滞在は1549年~1551年、豊臣秀吉の伴天連追放令が1587年、オランダ東インド会社の設立が1602年、江戸幕府の成立が1603年、長崎・平戸に江戸幕府の許可を得てオランダ商館が設置されたのは1609年です。
そんな時期にオランダへ新たに齎された珍しい異国の花は、オランダの人々にとって今を時めくステータス・シンボルとなったのです。
並んだ並んだ赤・白・黄色
17世紀(西暦1600年代)は「オランダの世紀」「オランダ黄金時代」と呼ばれることもあるほど、オランダが発展し世界的地位を築いた時代でした。チューリップによるオランダのバブル経済は、その隆盛の序盤を支えたと言っても良いのかも……良いのか?
前述の通り、チューリップは交配や変異しやすく、そのため当時は様々な園芸品種が開発されたようです。しかし当時の取引や価格に関して長期的にまとめられた記録はあまり残っていないとか。ヒヤシンスと混同されたことや、バブル経済の特徴の一つである価格高騰による市場の不安定性が、記録を残しにくい状況を作ったのかも知れません。
またチューリップは植物ですから、当然ながら花の咲く時季が決まっています。オランダが位置する北半球でチューリップの開花時期は4月から5月頃の約1週間。球根が翌年に備えて休眠するのが6月から9月頃であり、チューリップの現物取引はこの時期に行われたそうです。
では、このシーズン外にチューリップの取引はどのように行われていたかと言うと、「今はまだ現物取引できないけど、将来現物取引ができる時期が来たら、この種類のチューリップの球根をこれだけの量、いくらで売買します」と言う契約書を交わしていました。いわゆる「先物取引」と言う奴です。
また先物取引だけでなく、先物取引の「権利」を売買する「オプション取引」や、チューリップの球根そのものを貨幣代わりにした取引なども行われていたとか。17世紀のこの時期、チューリップの取引によって著しい経済成長を果たしたオランダは、その必要性から近代的な金融システムの基礎となる取引方法を次々と考案していったそうです。
世界初の先物取引所と見做される大阪の「堂島米会所」設立は1730年、現代の先物取引の基準を作ったアメリカの「シカゴ商品取引所」の設立は1848年だそうなので、そこから100年から200年ほど前のことです。凄いねチューリップ・バブル。
当時バブル経済を引き起こすほどオランダでチューリップが持て囃された理由は、いくつかあります。
前述した通り、それまでのヨーロッパになかった珍しい形状と鮮やかな色の花であること。低湿地帯であるオランダでも問題なく栽培できたこと。チューリップ独自のウィルス病により、花弁に予測不能な美しい模様が現れたこと。加えて変異と交配とがしやすかったため、新たな模様を持つ品種が次々に開発されたこと。
元々オランダの国土は、ライン川からの土砂が堆積した砂地や、土地に溜まった水を風車で汲み出す干拓地で構成されており、ヨーロッパで主食となる小麦の栽培には向いていませんでした。2024年7月現在でもオランダの主要農産物はチューリップ球根の他、甜菜(砂糖の原料のひとつである大根状の野菜)、馬鈴薯や玉ネギ、トマトと言ったものです。
そんな土地でも問題なく育つチューリップ。ヨーロッパ中の誰もが欲しがる珍しく美しい花は、これと言った産業のなかった当時のオランダにとって重要な輸出品、貴重な外貨獲得手段となりました。チューリップの栽培はオランダ中に広がり、美しい模様を持つ稀少種の価格は上昇し続け、誰もがこぞって高値が付く新たな品種を開発しようとしたと言います。そして、価格上昇を見越し借金してまで稀少種の球根を買い付け、先物取引で利益を上げる投機バブルが起きたのです。
しかもチューリップの場合、同種の球根を増やすには時間がかかり、なかなか量産できませんでした。またウィルス病に感染したチューリップは、模様が美しい反面あくまでも「病気」であるため、放置すると他の球根にも感染し、最終的には枯死して失われます。現れた模様は病気による「偶然」であり、品種としての安定性はなかったのです。そのためか、当時開発された新品種のほとんどは、現代まで残っていません。その稀少性こそが、価格の高騰に拍車をかけたのでしょう。
チューリップはライン川を遡ってヨーロッパ中に輸出され、オランダに多くの利益を齎したと言います。前述した通り、イングランドやフランスと言ったヨーロッパ諸国が北米やアジアへ進出し始めていた時代、各国は経済的に豊かになっていき、その象徴としてチューリップ球根を買い求めたのです。1636年までに、オランダの輸出品の取引高はジン、ニシン、チーズに次いでチューリップ球根が4番目になったそうで。中にはチューリップ球根1個が家一軒や土地と交換されることもあったとか。
それほど高価になればトラブルもあったようで、あまりにもチューリップ球根の価格が高騰し過ぎたため、1610年には空売りを禁止する政令が発布され、先物取引が制限されるようになります。それでもチューリップ球根の高騰は止まらず、1621年、1630年、1636年にもそれぞれ空売り禁止令が発布された規制が強化されたそうです。これは先物取引がチューリップ球根の取引以外でも行われるようになっており、オランダ東インド会社が先物取引を行っていた影響もあったようです。しかし禁止令を破ったところで追訴されることはなかったそうで、禁止令を守る者はいなかった訳ですね。
盛者必衰
1637年2月3日、オランダのアルクマールで行われたオークションで、チューリップ球根の価格は史上最高額を叩き出しました。しかし2日後の2月5日、ハールレムの酒場で定期的に行われていた球根のオークションにおいて誰も球根を落札せず、そこからチューリップ・バブルの崩壊が始まります。
誰も球根を落札しなかった理由は今日でもよく分かっていません。あるいは当時ハールレムで流行していたペストが何某かの影響を与えていた可能性はありますが、関連する記録は残っておらず、今やその真実を知るのは神のみ。
しかしチューリップ球根の市場が既に飽和状態にあったのも確かだったようで、その後もチューリップ球根を落札する者はいなかったらしく、価格暴落は僅か数日でオランダ全土に広がったと言います。
記録によると、チューリップ球根の取引の基準となる価格指数は同年2月9日の次に記録された日付が同年5月1日で、その間の約3ヶ月の価格変動は明らかになっていません。しかし5月1日の記録では、2月9日の約1/3の価格となっており、僅か3ヶ月で価値が約1/3まで下落すると言うのは(特に投資家にとっては)かなり大変な状況だったことでしょう。
チューリップ球根だとピンと来ないかも知れませんが、もし純金や宝石、不動産の価格が3ヶ月後に1/3に下落したら……経済に混乱を来すであろうことは想像に難くありません。ちなみに日本の1980年代から1990年代にかけてのバブル景気は不動産バブルでしたから、本当にチューリップ球根で良かったねオランダ。
それに関連してか、同年2月23日、オランダ各州から球根取引に関わる花商人の代表者36名がアムステルダムに集い、1636年11月30日以降に契約した先物取引契約をオプション取引契約と見做すことを決定します。これにより、球根の現物取引ができる時期が来たとき、買い手にとって利益が出る価格になっていればそのまま取引でき、利益が出ない価格であれば取引価格の10%の違約金を払って取引を無効化できるようになりました。
要するに、価格暴落したチューリップ球根を、買い手が暴落以前の高価格で買わずに済むように花商人の代表者たちが手配したのです。
しかし取引の中心地であったアムステルダムは、この決定に合意しなかったそうで、法的拘束力もなかったため、この合意は守られなかったと言います。そのためオランダ各州で対処が分かれ、当時オランダの裁判所はチューリップの取引に関する裁判に忙殺されたとか。
最終的には1638年5月28日、ハールレムが中心となって取引価格の3.5%の違約金を払って取引の無効化ができるよう決定し、オランダ議会もこれを承認します。そしてチューリップ・バブルによる経済的混乱も一応の終息を見せたそうです。
チューリップ・バブルの崩壊によりオランダ全土は何年も不況に陥ったと言います。一般市民が一攫千金を夢見てチューリップ球根の取引に手を出し、バブル崩壊して資産を失ったことが原因だそうです。
一方で、価格高騰がチューリップ球根と言う「狭い範囲」に限られた点と、バブル崩壊後の混乱が短期間で終息したことから、オランダの経済市場への影響は小さかったとも言われます。一般市民がチューリップ球根の取引に手を出したと言うのは誇張表現だったとも。
良かったねオランダ、30年以上も不況が続かなくて。
しかしチューリップ・バブルの影響で、オランダではしばらくチューリップが忌み嫌われたと言う話もあります。オランダと言えばチューリップなイメージの現代からは想像もできない話ですね。
バブル経済のサンプルケース
チューリップ・バブルは19世紀、スコットランド人ジャーナリストのチャールズ・マッケイが1841年に出版した『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds』によって、広く知られるようになったそうです。
以降、経済学者にとっては興味深い事例になったようですが、チューリップのヨーロッパ伝来も含めて当時の関連データで現代まで残されたものは少なく、現代におけるチューリップ・バブルへの分析や評価は割れているようです。
また当時のオランダはスペインと八十年戦争(オランダ独立戦争)の最中でしたが、チューリップ・バブルの期間中である1609年から1621年には12年停戦協定により休戦しており、この戦間期にオランダの海洋進出は大きく進歩したとも言います。前述していますが、1609年には長崎・平戸に江戸幕府の許可を得てオランダ商館が設置され、これは幕末期までオランダにとって重要な貿易拠点となりました。
またポルトガルの富の源泉でもあったインドネシアの「香料諸島」モルッカ諸島で、1599年にポルトガル勢を駆逐し、1605年には支配権を確立。しかし1615年、イングランドの進出により激しい支配競争を繰り広げるようになり、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島でイングランド勢力の虐殺事件を起こして、その影響力を排除したそうです。
チューリップ・バブルは単なるチューリップの物珍しさだけでなく、時代の波に乗ったオランダの「勢い」が招いたモノだったのかも知れませんね。
勢いが良すぎて記録とチューリップの品種が残ってないのは、ちょっと残念ですが。でも当時描かれたチューリップのイラストを見ていると、その不思議で美しい模様の花に魅了された人々の気持ちも、なんとなく分かる気がします。
寄付のお願い
本記事は全文無料で読めますが、もし記事を気に入ってくださったなら、以下からサポートをお願いします。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?